「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」は、オーディオ・ファンにも最高のイベントでした

2017年9月1日。オーディオ買取屋の本社がある長野県松本市にて、「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」が開催されました。

会場はアルモニービアン
国宝松本城へ向かうメインストリート「大名町通り」に面した歴史的建造物です。1937年(昭和12年)に旧第一勧業銀行ビルとして建築されますが、2003年8月、銀行統合のために同施設は閉鎖。取り壊しの話も浮上しますが、建物存続を願い2万人に達する署名活動や市民募金がおこなわれ、保存される運びとなります。今では「長野県史・ 建造物編」や「日本近代建築総覧」、「登録有形文化財」にも登録され、松本市の誇る歴史的建造物として名高い評価を得る建物です。

そんな由緒ある会場にて、13時開場、13時30分開演の予定だったわけですが、13時5分にはすでに100名ほどが会場入しており、たいへんな盛況ぶりが伺えるイベントでした。

参加者は「小澤征爾さんの誕生日を祝いたい」、あるいは「特別ゲストの東京フィルハーモニー交響楽団首席フルート奏者の神田勇哉さんの生演奏を聴きたい」など様々な想いを抱いていたと思いますが、この日は蓄音機の王様「クレデンザ」も登場。オーディオファンにも珠玉のひとときでした。

今回は、セイジオザワ松本フェスティバルが行われる松本ならではのイベント「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」の様子をお届けします。

 

目次

    1. 勝手にお祝い。なぜ許される?
      1-1.「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」企画意図
      1-2.企画者
      1-3.勝手にお祝い。なぜ許される?
    2. プログラム
      2-1.クレデンザコンサート
      2-2.神田勇哉さんのフルート演奏
    3. 会場設備
      3-1.エレクトロボイス「SX-300」
      3-2.ボーズ「802」
    4. まとめ

 

 

1.勝手にお祝い。なぜ許される?

1-1.「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」企画意図

小沢征爾さんの誕生日は9月1日です。そして、2017年のこの日、82歳になられる小澤征爾さんを「勝手に」祝おうというのがこのイベントの意図です。

お祝いの趣向も非常に凝っています。
蓄音機の名機で音楽を聴き、特別ゲストによるフルート演奏で祝う。

当日は小澤征爾さんの姿は見られませんでしたが、きっとこの話は本人の耳にも入っていて、どこかでほっこり微笑んでいることでしょう。本当にとても素晴しい「勝手な」バースデーコンサートでした。

 

1-2.企画者

企画者は、岩原勝さんが会長を務める「松本SPレコード愛好会」。文字通りSPレコード愛好家の集まりです。

SPとはスタンダード・プレイの略で、古いレコードです。
現在、私たちが手にするレコードのほとんどは、SPレコードではなくLPレコード(Long Play record)です。SPレコードの最大の特徴は、録音可能時間が片面4分30秒程度と非常に短い点です。その上、シェラック盤と呼ばれる固い素材でできているため、割れやすくキズも付きやすいレコードでした。

しかし、そうした弱点を補ってもあり余る魅力がSPレコードにはあります。そして、SPレコードは1963年に生産が終了しているのですが、そういうこともあって、この「松本SPレコード愛好会」ではSPレコードを心から愛し、大切にしているそうです。

会員数は80名程度。そして、会員同士がお互いに珍しいレコードを持ち寄って、音楽鑑賞をするのが主な活動です。

 

1-3.勝手にお祝い。なぜ許される?

1-3-1.武井勇二

ところで、なぜ松本SPレコード愛好会は「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」を”勝手に”行うことができるのでしょう。小澤征爾さんとどのような関係があるのでしょう。

詳細はわかりませんが、「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」には武井勇二さんの姿がありました。武井勇二さんはSKF(サイトウ・キネン・フェスティバル松本)初代事務局長です。松本市と小澤征爾さんを結びつけ、サイトウ・キネン・フェスティバルの松本市開催を実現させた立役者です。

左が武井さん、右が岩原さん

【武井勇二さんプロフィール】
生まれは1938年、長野県下諏訪町。1956年に長野県諏訪清陵高校卒業後、現セイコーエプソン株式会社に入社。 1961年4月、諏訪交響楽団入団。1992年4月にサイトウ・キネン・フェスティバル松本実施本部事務局長、1993年5月、にはサイトウ・キネン ・フェスティバル松本総合コーディネーターに就任。2003年2月、セイコーエプソン株式会社を退社。

 

1-3-2.武井勇二さんと小澤征爾さん

武井さんと小澤征爾さんは、1964年1月25日、諏訪で初めて出会います。武井さんがバイオリンを弾く諏訪交響楽団に、当時28歳の小澤征爾さんがやってきたのです。諏訪交響楽団はアマチュア・オーケストラでしたが、小澤征爾さんの中学時代の恩師・今井信雄さんが諏訪出身だったため、恩師の一声で駆けつけたそうです。

小澤征爾さんは到着するやいきなりベートーヴェンの「運命」の猛練習を開始。たった半日の練習でオケを練り上げ、演奏会まで持って行きました。そのエネルギッシュな姿に武井さんはいっぺんに小澤征爾さんに惚れ込み、この縁は絶対に絶やさないことを誓います。そしてそれ以来、小澤征爾さんが一時帰国するたび、塩羊羹を持って公演先の楽屋を訪ねるようになります。

それから時は経ち、1980年代のことです。小澤征爾さんは師匠の斎藤秀雄さんの門下生とSKO(サイトウ・キネン・オーケストラ)を結成。海外公演のスポンサーを探し始めます。そして、それを知った武井さんは勤務先(現エプソン)の社長に就任した元上司に掛け合い、財政支援の約束をとりつけます。こうしてSKOは89年〜91年、見事欧米ツアーを成功させます。

一方、小澤征爾さんはこの頃、日本の地方都市に根を下ろし、定期的にオペラを上演したいとの夢を抱くようになります。ただ、奈良が候補に挙がるものの良いホールはなく、小澤征爾さんの最大の理解者・江戸英雄さんは東での開催を求めていました。

そんな折、松本市で県松本文化会館(現在のキッセイ文化ホール)が建設中と知った小澤征爾さんは現地を視察。企業の協賛も取り付け、92年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現在のセイジ・オザワ松本フェスティバル)が初開催されます。

初回のオペラ「エディプス王」は舞台装置が大掛かりで、舞台に水を張り、雨を降らせました。経費は6億円以上。赤字は1億5千万円近くにのぼります。しかし、地元企業3社の補填もあって、なんとか初回講演を凌ぎます。当時、実施本部長の事務局長だった武井さんは、2016年の朝日新聞の取材に対しこう振り返っています。

ジャングルを切り開く想いだった。多くの企業が支援を続けてくれ、芸術的に価値ある成果を残せた。

このように、武井さんはセイジ・オザワ松本フェスティバル開催の功労者で、小澤征爾さんとは旧知の仲だったのです。

 

2.プログラム

2-1.クレデンザコンサート

「クレデンザ」はイタリア語で「サイドボード」の意ですが、英語のCredence(信用)の語源でもあります。王族や貴族の食べ物の毒見がこのクレデンザの上でされたことから、信用=クレデンザとなったそうです。

そして、このSPレコード盤再生用フロア型蓄音器「Victrola Credenza (ビクトローラ・クレデンザ)」も、「信用」と呼ばれることに誰も反対はしないでしょう。この蓄音機「クレデンザ」は、期待通りの美しい音色を響かせ、私たちを決して裏切らないからです。

今回の「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」では、そんな名機でいくつかの名曲を鑑賞してきました。

 

2-1-1.ビクトローラとは

ビクトローラは木製キャビネットの中にターンテーブルとホーンを納めた蓄音機です。1906年、ビクタートーキングマシン(Victor Talking Machine Company;米レコード会社。母体は1895年にエミール・ベルリナーが設立したベルリーナ・グラモフォン社)が発表しました。「外観からメカニック的要素を省き、家具らしく」。それが開発コンセプトでした。

このビクトローラは、発売されるやすぐに大ヒット。以降、15ドルの小さな卓上用モデルから600ドルの高級モデルまで、様々な大きさやデザイン・モデルが販売され、あっという間に家庭用蓄音機の人気ブランドになりました。

 

2-1-2.ビクトローラ クレデンザ とは

そんな人気蓄音機「ビクトローラ」の中でも歴代最高峰として名高いのが「クレデンザ」です。この蓄音機に関しては様々な書物で取り上げられ、「傑作機」「希代の名機」「最高峰」「耽美な音色」など、数多くの賛辞を欲しいままにしています。名盤SP収集家の間ではもはや説明不要の一品で、世界最古にして最高峰の手動蓄音器であり、後の「電動蓄音器・ターンテーブル」とは一線を画す代物です。

優に100回を超える試作機の製作過程を経て完成したクレデンザ。アイデアが凝縮された機能やギミックは圧巻です。また、キャビネット内部で折りたたまれ収納された全長1.8mのホーンは、電気増幅がなくても良好な音圧・音質を奏でます。そして、電気再生音ではないため、マスキングなどがされていない忠実な音はとてもフラットで心地よく、何時間聞いても疲れることがありません。

蓋の開閉には空気圧を利用。閉める際、誤ってキャビを傷つけることもありません。回転速度の微調整もつまみで容易に行うことができ、再生終了時には自動で回転が止まる「オート・ストップ」には、当時の世界はたいへん驚きました。

モーターは手巻きツインモーター。2段階で回転を支えているため、むらなくプーリーが回転。また、本機は観音開きの4枚扉で構成されており、左右がレコード収納セクション、中央がホーン・グリルセクションです。

 

2-1-3.曲目

ビクトローラ クレデンザの音量は、アンプを使用しない生音なのに迫力満点でした。また、音質はクリアで明瞭、それでいてまろみがあって柔らか。さすがに低音こそ威力はそこまで強く感じられませんが、楽器によってはこちらの方が生音に近いのでは、と感じるような音色でした。

そんなビクトローラ クレデンザで鑑賞できた曲の一部を以下にご紹介します。

  • リスト「ラ・カンパネラ」
  • ショパンの練習曲「別れの曲/子犬のワルツ」
  • ベートベン「ロマンス」

その他にもたくさん鑑賞してきましたが、最初に流れた「ラ・カンパネラ」は非常に素晴しかったです。蓄音機の良さが凝縮していました。主催者の岩原さんが最初に選曲した理由が何となくわかったものです。

が、それはさておき、手動蓄音機は頻繁に使わないと狂ってしまうそうです。「蓄音機はその昔、時計屋でも売っていたのですよ」。クォーツ時計がまだ主流ではなかった時代を思い返すと、そんな解説に妙に納得したものです。そして、このクレデンザの所有者・岩原さんも、聞けば、ほぼ毎日クレデンザで名曲を楽しんでいるそうです。

名機は使ってこそ名機。
私もその意見には心から賛成です。

 

2-2.神田勇哉さんのフルート演奏

クレデンザで名曲を楽しんだ後は、東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者の神田勇哉さんによるフルート演奏がありました。音楽ばかりでなくトークも軽快で、楽しむと愉しむの両方が味わえた時間でした。

2-2-1.神田勇哉さんプロフィール

神田 勇哉(かんだ ゆうや)さんは1984年生まれ、長野県松本市出身のフルート奏者。Magnum Trioメンバー。7歳より居石ひとみの許でフルートを始め、長野県松本美須々ヶ丘高等学校を経て、東京芸術大学を首席で卒業、パリ地方音楽院にて研鑽を積みます。 現在は東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者。 ヴァンサン・リュカ、工藤重典、金昌国、中野富雄、神田寛明、木ノ脇道元に師事。これまでにアンサンブルofトウキョウ、藝大フィルハーモニア、N響室内楽等と共演。2012年には、若手音楽家が一流の歌手や演奏家と触れ合う小澤征爾音楽塾オペラプロジェクトⅩⅠ「蝶々夫人」にも参加。神田さんは楽都・松本が誇る新進気鋭の音楽家です。

 

2-2-2.演目

ピアノ伴奏は井垣里沙さん。東京音楽大学ピアノ科卒業、同大学院伴奏科修了。
神田さんのフルートは、彼女のピアノととても美しく響き合い、音楽ファンなら誰もがうっとりする時間でした。

一曲目は、非常に趣向が凝っていました。
クレデンザにて、巨匠モイーズの「ハンガリー田園」のレコードを流した後に、神田さんが演奏しました。本人は「恐れ多い」とおっしゃっていましたが、どちらも素敵な音色でした。

二曲目は、フルートからピッコロに持ち替えて、モーツァルト作曲「魔笛」より「私は鳥刺し」「恋人か女房か」
を二曲続けて。

さらには、参加型のプログラムも用意されていました。
フルートの名機「ルイ・ロット」(神田さんは、フルートのストラディバリウスと表現していました)と現代のフルートとの聞き比べです。

どちらも美しい音色でしたが、現代のフルートは現代的な響きが、ルイ・ロットは妖艶な響きが印象的でした。ただ、音量があからさまに違っており、楽器づくりの進化が伺えました。

他、神田さんの演奏曲は以下の通りです。

  • 多久潤一郎「虹」
  • シネマファンタジー(神田さん選曲)
    ニューシネマパラダイス/ティファニーで朝食を/ムーンリバー/スターウォーズよりレイア姫のテーマ/虹の彼方に/マイ・フェア・レディ
  • ドビュッシー「シランクス」
  • ビゼー「カルメン」(フランソワ・ボルン編曲)
  • ガブリエル・フォーレ「ペレアスとメリザンド」より「シシリエンヌ」

2-2-3.トーク

神田さんの魅力は演奏だけではありませんでした。トークも非常に楽しく、勉強になりました。

まず、音楽家がいわゆる「仕事」をするのは、月に半分程度だそうです。といっても、それ以外の時間は自主練習に励んだり、表現力を高めるために美術館などを巡るそうですから、ほぼ休みなく音楽に明け暮れていることになります。さすがプロ。そう感じたものでした。

指揮者に関する話も興味深かったです。というのも、神田さんはしばしばこんな質問を受けるそうです。「指揮者によって音楽は変わるのですか?」。そのたび、神田さんは「イエス」と答えているそうです。理由は大きく2つあるそうです。

1つが、曲に対する解釈の統一です。音楽家の皆さんは、例えば「この部分はフォルテ」「この部分はもう少しゆっくり」など、全ての曲に対し自分流の解釈をお持ちだそうです。ですから、オーケストラのような集団では解釈の統一が必要になる、とのことでした。

2つ目は音量です。お客さんの耳にどう聞こえるかは、指揮者しか分かりません。ですから、指揮者がそれぞれのパーツの音量を指定することで、オーケストラがオーケストラとして機能するそうです。

また、フルートに関しても学びがたくさんありました。
何より衝撃的だったのは、その特殊奏法の多さです。今回のコンサートでは多久潤一郎の「虹」を披露していただきましたが、その曲中に登場する特殊奏法は何と7つ!だから「虹」というタイトルなのかは不明ですが、心躍る音楽でした。

そして、ガブリエル・フォーレ「シシリエンヌ」。アンコールで演奏していただいた曲ですが、これはフルートを始めた人が最もマスターしたがる曲だそうです。本当に私も大好きですが、隣にいた方は「フォーレ」の演奏があると分かった瞬間、「これが聞きたかったんだ」と感嘆の声を漏らしていました。

 

3.会場設備

会場にはスピーカーが2セット設置されていました。エレクトロボイスの「SX-300」とボーズ「802Ⅱ」です。両方とも、世界中のイベントで活躍しているスピーカーです。

 

3-1.エレクトロボイス「SX-300」

家庭でも使用可能な、30cmコンパクト・スピーカーのベストモデルの1つ「SX-300」。樹脂製スピーカーの定番にしてEV(エレクトロボイス)の代表機種です。切れが良くシャープな高域と、レスポンスの良い低域。そして、耳あたりのよい万能サウンド。各種オプションにより設置や可搬性にも優れているので、イベント会場でも大人気にして大定番のスピーカーです。

小・中規模イベントのメインスピーカーからコンサートのサブスピーカー、効果音の仕込スピーカーまで、
あらゆるシーンで広く活躍するEVのロングセラー・スピーカーです。

〜EV「SX-300」の主な仕様〜

  • タイプ:2WAYフルレンジ
  • 周波数特性:50 Hz – 20 kHz(-10dB)
  • 許容入力:600W
  • インピーダンス:8ohms
  • 出力音圧レベル:99dB
  • ウーハーユニット:12インチウーハーDL12-BFH
  • ドライバー:1インチコンプレッションドライバー DH2010A
  • コネクター:スピコン x2 NL4MP
  • スタンドマウント:○
  • サイズ:42.9W×58.6H×31.2Dcm
  • 重量:14.5kg
  • 備考:65°×65°CDホーンは、スピーカーを縦横どちらにも設置でき、大きな開口部は広帯域にわたる優れた指向性コントロールを実現。プラスチック・エンクロージャー・タイプとして、常に人気を保っています

3-2.ボーズ「802Ⅱ」

人間の耳に聞こえる範囲の音を、どのように聞き手へ届けるか。そこに徹底的にこだわっているスピーカーメーカーがBOSE(ボーズ)です。ですから、ボーズのスピーカーは超高域や超低域は再現しません。だからといって、他社スピーカーと比較して遜色があるわけではありません。

そんなメーカーの802Ⅱは、11.5cmのドライバーを使用。これは過酷な使用に耐える製品と評判で、実際オーバーホールを含むメンテナンスをほぼ必要としません。また、このドライバーのコーンやエッジは、他メーカーと比べて経年変化の発生が少ない製品です。そのためイベント会場では非常に使用されることの多いスピーカーです。

発売は1984年11月。しかし、この「802Ⅱ」は、多くのイベント会場でまだまだ第一線で活躍している名機です。

〜BOSE「802Ⅱ」の主な仕様〜

  • 許容入力:240W(rms)、600W(peak)
  • インピーダンス:8Ω
  • 使用ユニット:フルレンジ11.5cm
  • 再生周波数帯域:50Hz~16kHz
  • サイズ:520W × 341H × 331D mm
  • 重量17.0Kg(カバー含む)、14.0Kg(カバーなし)

 

4.まとめ

小澤征爾さんの誕生日9月1日に開催された「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」。特別ゲストに東京フィルハーモニー交響楽団首席フルート奏者の神田勇哉さんを招いたパーティーは、まさにクラッシック・ファンには最高の時間でした。特にアンコールで演奏された「フォーレ」の後は、拍手がなかなか鳴り止まなかったものです。

一方、オーディオファンにも珠玉の時間でした。ビクトローラ クレデンザ。別名「蓄音機の王様」。そんな名機が奏でる音は、まさに耽美な音色でした。また、選曲も素敵でした。さすが「松本SPレコード愛好会」です。心から敬愛の念を抱きつつ、敬意を表します。

そして、武井勇二さん。
この方がいたからこそ、セイジ・オザワ・松本フェスティバルは開催することができていて、今回のような企画も実現できたのだと思います。ありがとうございます。

楽都・松本には、様々な想いと音楽が絡み合って、素晴しい催しがいくつもあります。これからもオーディオ買取屋は、音楽を、オーディオを愛する者として、継続的に音楽イベントに参加し、皆さんに音楽シーンの盛り上がりをお伝えしていきます。

円盤式メディアの元祖「レコード」においては、音質が変化する要素はたくさん存在します。レコード盤の状態やカートリッジの性能、トーンアームやフォノアンプなどいくつもあって、そして、それらの要素を自分で組み合わせて音質を再現します。

一方、CDプレーヤーには、音の再現に関してはほとんど要素がありません。ただ繋げるだけ。それだけで簡単にクリアな音質が再生できます。

また、レコードは人間が聞き取れる可聴域(20Hz~20,000Hz)以外の音も記録しますが、CDでは記録を最適化しており、可聴域の間の音のみを取り出してデジタル処理(サンプリング)して記録しています。

デジタル情報を記録するためのメディア「CD」。

ファイルオーディオも含め、今はアナログの振動である音の波をデジタル化し、それを楽しむのが一般的となりました。そこで今回は、音をデジタル化した最初のメディア「CD」について詳しく見てみようと思います。

目次

  1. CD開発の経緯
    1-1.CDはソニーとフィリップスの共同開発
    1-2.なぜCDは74分、12cmなのか
    1-3.それでも12cmでは大きい
  2. 世界初のCD
    2-1.世界初のCDは
    2-2.世界で初めて販売されたCDタイトル
  3. 3世界初のCDプレーヤー
    3-1.CDP-101
    3-2.DAD-1000
    3-3.DCD-2000
    3-4.Lo-D「DAD-1000」のOEM
  4. まとめ

1.CD開発の経緯

1-1.CDはソニーとフィリップスの共同開発

アメリカの発明家「ジェームス・ラッセル」。彼が音楽用光学メディア・テクノロジーの発明に成功したことからCDの歴史は始まります。1965年のことでした。そしてその数年後、フィリップスとソニーは共同開発を行う方針を固め、1979年の夏には実際に共同開発を開始します。

両者が手を組むことは大変意義のあることでした。フィリップスは光学方式のビデオディスクのリーダー的存在、ソニーはデジタルオーディオ信号処理技術を開発しています。ですから、理想的な音楽メディアが完成することは間違いありませんでした。

さらに、フィリップスにもソニーにも、自前のソフトウエア会社がありました。フィリップスにはポリグラムという世界的なレコード会社が、ソニーにも1968年に設立したCBS・ソニーレコードがあり、フィリップスもソニーも新メディアのソフト供給者には困らない状況でした。

1-2.なぜCDは74分、12cmなのか

とはいえ、世界初の試みだったこともあり、開発は困難を極めます。まず両社の間で論議となったのが「量子化ビット数」の問題でした。

音声の伝送において、連続したアナログ信号からデジタル信号に変換する際(AD変換)、一定の時間に何個のデータ(標本)をサンプリング(抽出)するかを表すのが、サンプリング周波数と呼ばれる数値です。サンプリングレートとも呼ばれますが、この数によって、音質の良否が決定されます。また、サンプリングされた各信号のレベルを0と1の2進数で表すことを量子化といい、この2進数の桁をビットと定義しています。「ビット数が大きい」、つまり「量子化の精度が細かい」ほど、再生音のダイナミックレンジは大きくなります。

そして、ソニーは21世紀になっても通用するシステム構築のために、少々無理をしてでも「16ビット」にすべきだと考えていましたが、フィリップスはそれに猛反対。「14ビット」を主張します。14ビットは実現が容易でしたが、16ビットは技術的にも価格的にも至難の業とされていたからです。

さらに大きな壁となって立ちはだかったのが「規格」でした。「記録時間」と「ディスクの直径」の問題です。フィリップスは「記録時間は60分、ディスクの直径は11.5cm」を主張しますが、ソニーの主張は「75分、12cm」でした。

当然、こちらも両社の主張には根拠があります。

フィリップスの主張した直径11.5cmというサイズは、オーディオカセットの対角線と同じ長さで、DIN規格(ドイツ工業品標準規格)に適合します。つまり、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んだわけです。

一方、ソニーは音楽ソフト面から議論を進めており、「オペラの幕が途中で切れないこと」プラス「ベートーヴェンの第九が収まること」を主張していました。その主張の中心人物は、当時ソニーの副社長で音楽家でもあった大賀典雄。彼は「クラシック音楽の95%が、75分あれば1枚のCDに収められること」、さらに「第九はおよそ65分程度であること」を調べ上げます。そして、名指揮者カラヤンの名前を引き合いに出し(実際、カラヤンも新しいメディアには第九が一枚で収まることを推奨していました)、結果、CDの時間は74分に決着します。

 

1-3.それでも12cmでは大きい

そうして経緯を経て、一旦は74分12cmで決着したかに見えましたが、フィリップスは別角度からソニーに反論します。「12cmでは上着のポケットに入らない」というのです。実は、新しいメディアはポケットサイズであることを前提に開発してきたのです。

が、そこはソニーの調査力です。日・米・欧の上着のポケットサイズを徹底的に調べ上げ、「ポケットのサイズは最大で14cm」と結論。そこで初めて正式に、ソニーの主張どおり最大演奏時間74分42秒、直径も12cm、サンプリング周波数44.1kz、量子化ビット数も16ビットとなりました。

2. 世界初のCD

2-1.世界初のCDは

1981年にはドイツでテストCD(カラヤン指揮によるリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲)が製造され、当初の予定通り1982年にはCDの生産が開始されました。

そして、その年の10月1日、日本でソニー、日立(Lo-Dブランド)、日本コロムビア(DENONブランド)から世界初のCDプレーヤーが発売され、さらにその同日には、CBSソニー、EPICソニー、日本コロムビアから世界初のCDソフトがおよそ50タイトル発売されました。

その中で最初に生産されたのが、ビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』(CBSソニー/35DP-1)です。そのため、ビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』が世界初のCDと言われていますが、それはあくまで、世界で最初に売り出されたCDの中で最初に生産されたCDだからです。

ちなみに、実際に世界で初めて生産された商用CDはABBA/The Visitorsです。西ドイツのハノーファのポリグラムの工場にて8月17日から生産がスタートしています。ただ、欧州でのCD販売は日本よりも二週間遅く、10月15日からでした。そのため、世界初のCDについては、日本人は「ビリー・ジョエル/ニューヨーク52番街」と言い、欧州人は「ABBA/The Visitors」と主張しています。

なお、世界最大のレコード販売国アメリカでは、さらに遅れること5ヶ月、1983年3月2日に初めてCDが発売されます。当時は日本と西ドイツにしかCDを製造できる工場がなかったことが最大の要因でした。

こうしてCDは世界に誕生し、誕生から5年後の1987年にはレコードのシェア率を追い抜き、さらに1991年にはカセットのシェア率を抜き去って、見事オーディオメディアにおけるシェア率第一位の座を射止めます。

2-2.世界で初めて販売されたCDタイトル

1982年10月1日に発売された最初のCDタイトルは以下の通りです。

2-2-1.クラシック by CBS・ソニー

・ベートーヴェン「運命」 シューベルト「未完成」 / マゼール:ウィーン・フィル
・ベートーヴェン「英雄」 / エータ:ニューヨーク・フィル
・モーツァルト「ハフナー」「リンク」 / クーベリック:バイエルン放送交響楽団
・モーツァルト「ブラーハ」交響曲第39番 / クーベリック:バイエルン放送交響楽団
・モーツァルト 交響曲第40番「ジュピター」 / クーベリック:バイエルン放送交響楽団
・ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」 / クーベリック:バイエルン放送交響楽団
・チャイコフスキー 交響曲第5番 / マゼール:クリーブランド管弦楽団
・ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番「革命」 / バーンスタイン:ニューヨーク・フィル
・チャイコフスキー 序曲「1812年」他 / マゼール:ウィーン・フィル
・R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥラスはかく語りき」 / メータ:ニューヨーク・フィル
・ストラヴィンスキー バレエ音楽「ベトルーシュカ」 / メータ:ニューヨーク・フィル
・ホルスト 組曲「惑星」 / マゼール:フランス国立管弦楽団
・ドヴォルザーク チェロ協奏曲 / 堤剛(Vc)、コシュラー:チェコ・フィル
・グリーグ ピアノ協奏曲他 / 中村紘子(P)、大町陽一郎:東京フィル
・新ショパン名曲集(全12曲) / 中村紘子(P)

2-2-2.ポピュラー by CBS・ソニー

・ニューヨーク52番街 / ビリー・ジョエル
・ストレンジャー / ビリー・ジョエル
・ミドルマン / ボズ・スキャッグス
・炎(あなたがここいてほしい) / ピンクフロイ
・ターン・バック / TOTO
・エスケイプ / ジャーニー
・ギルティ / バーブラ・ストライザント
・ナイト・パッセージ / ウェザー・リポート
・スーパー・ギター・トリオ・ライブ / アル・ディ・メオラ、パコ・デ・ルシア、ジョン・マクラフリン
・ワン・オン・ワン / ボブ・ジェームス&アーム・クルー
・ヒッツ!/ボズ・スキャッグス
・TOTO IV / TOTO
・「若き緑の日々」ニューベスト / サイモン&ガーファンクル
・明日に架ける橋 / サイモン&ガーファンクル
・天空の女神 / EW & F
・ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン / マイルス・デイビス
・ハービー・ハンコック・トリオ with ロン・カーター+トニー・ウイリアムス

2-2-3.国内制作 by CBS・ソニー

・A LONG VACATION / 大滝詠一
・NIAGARA TRIANGLE Vol.2 / 佐野元春、杉真理、大滝詠一
・Pineapple / 松田聖子
・恋人よ / 五輪真弓
・Again百恵 あなたへの子守歌 / 山口百恵
・THE BEST Againキャンディーズ / キャンディーズ
・オレンジ・エクスプレス / 渡辺貞夫
・KIMIKO / 笠井紀美子
・ニューミュージック・ベスト・ヒット / オムニバス
・THE SL:SL SOUND IN DIGITAL

2-2-4.ポピュラー by EPIC・ソニー

・イザベラの瞳/フリオ・イグレシアス
・オフ・ザ・ウォール/マイケル・ジャクソン
・やさしくラブ・ミー/ノーランズ
・禁じられた夜/REO・スピードワゴン
・ゼア・アンド・バック/ジェフ・ベック

2-2-5.国内制作 by EPIC・ソニー

・SOUL SHADOWS/シャネルズ
・SOMEDAY/佐野元春
・LUNATIC MENU/IPPU-D

3.世界初のCDプレーヤーは

CDが発売された1982年10月1日と同じ日、日本ではソニー、日立(Lo-Dブランド)、日本コロムビア(DENONブランド)から世界初のCDプレーヤーが発売されます。ソニーの第1号機は「CDP-101」、日立の第1号機は「DAD-1000」、DENONの第1号機は「DCD-2000」でした。

3-1.CDP-101

ソニーが発売したCDプレイヤー第1号機「CDP-101」。試作機は外観がずんぐりしていたことから「ゴロンタ」との愛称があり、CDも垂直に入れるタイプでした。が、ソニーは発売直前に仕様を大きく変更。トレイ式を採用します。そして、これに驚いたのは他メーカーでした。各社ともびっくりして、2号機からはこぞってトレイ式を採用します。

そのほか、 前後1曲の頭出しがワンタッチでできる「AMS(オートマチック・ミュージック・センサー)機能」、 全曲/1曲/部分の3パターンをセレクトできる「リピートプレイ機能」などを搭載。定価は16万8千円とかなり高価でしたが、それなりに売れたようです。

今では「停止」は「STOP」が一般的ですが、このCDP-101では「RESET」を採用しています。ただ、他メーカーの「STOP」の方が浸透したため、その後のソニーはしばらく「STOP(RESET)」と並記していましたが、すぐに「STOP」に統一しました。

ちなみに、 別売りのRM-65を使用すればカセットデッキとのシンクロプレイが可能です。また、今ではリモコンは付属品ですが、当時は別売り(ワイヤレスリモコン RM-101)で1万円しました。

【主な仕様】
・読取り方式:非接触光学読取り(半導体レーザー使用)
・レーザー:GaAlAsダブルヘテロダイオード
・回転数:約500〜200rpm(CLV)
・演奏速度:1.2m/s〜1.4m/s(一定)
・周波数特性:5Hz〜20kHz ±0.5dB
・高調波歪率:0.004%以下(1kHz)
・ダイナミックレンジ:90dB以上
・ワウ・フラッター:測定限界以下
・出力レベル:2Vrms(MSB) /ヘッドホン出力レベル:28mW(32Ω)(MSB)
・電源:AC100V 50Hz/60Hz
・消費電力:23W
・外形寸法:W350 x H105 x D325mm
・重量:7.6kg

3-2.DAD-1000

Lo-D(日立)が発売したCDプレイヤー第1号機「DAD-1000」。こちらもソニーのCDP-101とともに発売された世界初のCDプレーヤーです。ソニーの初号機にあるCDPは「CD-Player」ですが、Lo-Dの初号機にあるDADは「Degital Audio Disk(デジタル・オーディオ・ディスク)」の略で、レコードに代わる次世代メディアを指します。CDという名称が普及する前はよく使われていました。

ピックアップ(CDから信号を読みとるパーツ)は、自社製の3ビーム方式を搭載。オーディオ信号の安定した読取りを実現しています。また、サーボ回路はソニーを含めた各社初号機の中でも技術的レベルが一段高く、信号処理回路はLSI化。さらに、D/Aコンバーターも自社開発の16bitDACを搭載していました。

機能面では、15曲のランダムメモリー選曲、ワンタッチ選曲、スキャナプレイ、メモリーストップ、オートリピートなどを搭載。さらに特筆すべき点として、今ではお目にかかれない、ピックアップ位置がひと目でわかるロケーションインジケーターが装備されていました。

この「DAD-1000」の販売にあたって、Lo-Dはカタログや広告を使った技術的特徴や機能などのPRはしませんでした。あくまで推測ですが、CDプレーヤーはそれまでのオーディオと全く異なる技術を採用していたため、耳慣れない用語を使うことで既存ユーザーの混乱を避けたのかもしれません。ただ、次のDAD-800からは自社製のピックアップやサーボ回路などを十分にアピールしています。

定価は18万9千円。

【主な仕様】
・周波数特性:5Hz〜20kHz ±0.5dB
・高調波歪率:0.03%以下
・ダイナミックレンジ:90dB以上
・ワウ・フラッター:測測定限界(±0.001%W.Peak)以下
・出力電圧: 2.0Vrms
・電源電圧:AC100V 50Hz/60Hz
・消費電力:24W
・外形寸法:W320 x H145 x D234mm
・重量:5.6kg

3-3.DCD-2000

実は、Lo-Dの「DAD-1000」は、DENONとの共同開発です。DENONではDCD-2000の名称で販売されました。定価は同じ18万9千円。さらに、仕様も全く同じで、Lo-Dのモデルはシルバー、DENONのモデルはブラックでした。

しかし、この「DCD-2000」は「DENONミュージアム」に掲載されていません。ひょっとすると、共同開発とは名ばかりで、この世界初のCDプレーヤーの開発はLo-Dがメインだったことが関係あるのかもしれませんが・・・・・・とにかく、DENON(日本コロンビア)が持っていたPCM(Pulse Code Modulation)技術と、Lo-Dブランドで培ったオーディオ技術とが融合して、DCD-2000は完成しました。

※仕様はLo-D「DAD-1000」と全く同じのため割愛。

3-4.Lo-D「DAD-1000」のOEM

3-4-1.Lo-DがOEM供給できた理由

Lo-Dの技術提供はDENON「DCD-2000」だけではありません。そのほか多くの海外メーカーにもOEM供給しています。

ちなみに、1982年当時では、こうしたプレーヤーを一社単独で作ることは非常に困難でした。ソニーの「CDP-101」も、半導体レーザーはシャープ製です。しかし、当時の日立はメインフレームと呼ばれる大型コンピューターやオフィスコンピューター、ミニコンピューターなども製造していました。また、LSIなどの半導体の分野でも、自社工場を持つなど優れたエレクトロニクス技術を保持。さらに、モーターや半導体レーザーなど、CDプレーヤーの主要パーツを自社でまかなうことができたため、そこにLo-Dブランドで培ったオーディオ技術が加わって、一社単独での生産が可能になりました。

3-4-2.ビクター「XL-V1」

ビクターのCDプレーヤー第1号機「XL-V1」も、DAD-1000のOEMです。

ただ、DENON「DCD-2000」とは違って、Lo-D「DAD-1000」と全く同じというわけではありません。DAS-90デジタルオーディオシステムやAHD、VHDシステムの開発を通して得られた技術をミックスして完成させています。

ピックアップには半導体レーザーダイオードによる光学式ピックアップシステムを、デジタル信号処理回路にはMOS-LSIを、メカニズムの駆動モーターには低振動・ハイトルクのコアレスモーターを採用しています。また、D/A変換動作にて正確さを増すため、D/Aコンバーター自身に校正機能を搭載。これにより温度変化の影響や素子のバラツキを低減し、安定した音質を再現しています。

操作状態を確認できるFLディスプレイを搭載し、さらに、ピックアップの位置が確認できるロケーションインジケーターも搭載しています。

【主な仕様】
・周波数特性:5Hz〜20kHz ±0.5dB
・ダイナミックレンジ:90dB以上
・ワウ・フラッター:測定限界(±0.001%W.Peak、EIAJ)以下
・出力レベル:2Vrms
・電源:AC100V 50Hz/60Hz
・消費電力:21W
・外形寸法:W322 x H147 x D245mm
・重量:5.6kg

4. .まとめ

ジェームス・ラッセルが音楽用光学メディア・テクノロジーの発明に成功して始まった、新たなメディア「CD」の歴史。その研究結果を元に、実際に商用として開発したのが「フィリップス」と「ソニー」でした。二社は細かい規格についての激論を重ねながら、1981年にドイツでテストCDを製造し、1982年には予定通りCDの生産を開始します。

しかし、新しい規格への挑戦とあって、既存のマーケットは開発に対して前向きではありませんでした。
「ユーザーはこれほどまでレコードに満足しているのに、なぜ新しいメディアをわざわざつくる必要があるのかね。反対だ」
それが大方の意見でした。

それでも、フィリップスとソニーはまわりを徐々に説得することに成功し、とうとう1982年、念願の新しい音楽メディアCDは誕生します。そして、その誕生から5年後にはレコードのシェア率を追い抜き、発売から10年も経たないうちにカセットのシェア率を抜き去って、見事オーディオメディアにおけるシェア率第一位に輝きます。

近年では売上が急激に下がっているようですが、それでもまだまだ音楽メディアの主役であるCDには、多くの名曲が収められているメディアです。

美しい音で、美しい曲を。

これからも、ハードであるオーディオと共に、ソフトのCDももっと大切にしなければと、そう私は思うのですが、いかがでしょうか。

オーディオ買取屋草間でございます。

オーディオ買取屋のお客様から「オーディオの目覚め」として記事を寄稿していただきました。

今回はオーディオの履歴書としてお客様がオーディオマニアになったきっかけをご紹介いたします。

それでは、皆様もご自分の体験を思い出しながらお読み下さい。

オーディオの履歴書(JBL4345愛好家)
「オーディオの目覚め」

  1. 音との出会い
  2. ステレオなるものとの出会い
  3. 新たなメディアとの出会い
  4. ノイズとの戦い~清濁併せ飲む
  5. ノイズからの解放
  6. 何かが足りない~ノイズからの解放とともに失ったもの

1.音との出会い

昭和の41年6歳のころだろうか、白黒の小さなブラウン管がビートルズという、幼い自分にとっては未知なる国の未知なるグループのメンバーであるポールマッカートニーなる人物が死亡したのではないか(死亡説)とされるニュースがアビィロードのジャケットとともに流れていた。

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今ではさほど珍しい事では無いが、当時日本のお固い報道番組において、一音楽グループのメンバーが死亡したとされるレベルの報道は、かなりの違和感をもって受け取られたと記憶している。
(御存じの通り、現在リンゴスターとともに御健在である。)

その頃の私、いや日本の風潮では男性が女性のように髪を伸ばし「エレキギターなるもの」を弾いて歌っている姿はまさしく不良の代名詞であり、近づいてはならない存在として幼い心に焼きついたのだ。(しかしその6年後には、その不良連中の奏でる楽曲に人生変わるほどの再会を果たすことになるのだとも露知らずに・・・。)

ところで私と音(音楽)との最初の出会いは、何故か貧乏家の自宅にあった真空管式のステレオ装置から始まる。
トランジスターや新素子が主流の今では考えられない事かもしれないが当時は※電源を「投入」し真空管が充分に温まらないと音が出ないという世界であった。
(注釈:電源投入=SW-ON 笑)

自分を音(音楽)の世界にひきずり込んだのは、まさしくこの古めかしいステレオが奏でる「洋楽なるもの」であった。そもそも持ち主である私の親父という人は、固物で怖い存在だったが昔、画家を目指したというだけあってか、音楽にもその芸術的な部分を見出していたようだ。ただ、ジャンルには全くこだわりの無い様子で、親父本人の感性に訴えるものであれば、問わずに受け入れる寛容性があったように思う。

時にはクラシック、ラテン、ジャズ、ポップス、かと思えば演歌に民謡、浪花節。
でも親父の傍らで聞いているうち、自分もいつしか良いものはジャンルを問わず良いものである事を学び、それが自然と身についていったのかもしれないと50年を経た今思う。

思い出に残っているのは、ユーゴー・ウインターハルター楽団の奏でる「カナダの夕陽」、デイヴ・ブルーベック・カルテット「テイク・ファイブ」。フレンチポップスでは、シルビィ・バルタンの「アイドルを探せ」、シャンソンでは岸洋子の「恋心」、それにニニ・ロッソのトランペットも哀愁漂ってたなぁ。

映画「シェーン」の挿入曲ヴィクター・ヤング楽団奏でる「遥かなる山の呼び声」等々、他にも色々聞いたと思うが、今述べたものが親父の定番だったような気がする。

しかしこれこそが私のオーデオとの出会いであり原点だと思っている。

2.ステレオなるものとの出会い

昭和初期の普及版ステレオ装置といえば、合板木目調の今から思えば安い張りの箪笥みたいな姿であったが、当時は家庭にテレビがあるというだけで羨ましがられる世の中、どうして我が貧乏家(や)にこの様な貴重品があったかは定かでない。

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先ずは電源を投入すると真空管(チューヴ)のガラス越しに見えるフィラメントに明かりが灯る。そしてブーンという唸るようなノイズが序々に大きくなるにつれてアンプのコンディションが整えられていく。最初の一音を発するまでの待ち時間、プロセスこそ音楽の世界に入り込んでいくための重要な儀式である。

この視覚的要素もまたオーディオの醍醐味であり、未だにマッキントッシュ「MC240」や「MC275」等の真空管アンプが復刻されたり、中古市場を賑わす所以である。現代でこそ、スイッチを押せば待たせる事なく手軽に音楽を聴く事が可能だが、何となく音に対するリスペクトの念が希薄に思えてしまうのは、私だけであろうか?

そして、この装置は更にもう一段のプロセスを要求する。
レコードには45回転のEP版と呼ばれるもの、33と1/3回転のLP盤と呼ばれるものがあり、それぞれの回転数を適切に設定する事が肝心で、当時は円盤状のシート(紙製だった)を用いシート上に破線で描かれた円を見ながら希望する回転数に同調するようツマミを調節していくのだが、その破線がクッキリと停止して見えたら完了である。

こうして、漸くレコードを聴く体勢が整うのである。

そこから、ポリエチレン製のレコード盤をジャケットから取り出し、プレイヤーのターンテーブルにセットする。
スイッチを入れ正規の回転数に到達するのを見計らい、レコード盤の溝めがけ息を殺しながら慎重に注意深く針を着地させる。そして無音域に交じるパチパチというノイズを聴きながら、固唾を飲んで第一声(音)を待つのである。

「このドキドキ感がたまらない。」

現代に生を受けた皆さんにはご理解いただけないでありましょうが、このプロセスこそが音楽に対するリスペクトであり、向き合う為の儀式であったようにも思う。そして、未だ自分の中に息づいている。

3.新たなメディアとの出会い

社会人になり給与を貰えるようになって間もないころだろうか?レコード店の僅かな一角にコンパクトなジャケットをまとったメディアが並ぶようになったのは。

そう、CD版の登場である。

しかし当時は、まだまだレコード盤が主流の為、あまり種類もなく特段気にかける事もなくやり過ごしていた。
まさかこれがレコードを市場から追いやる円盤とは知るよしもなく。

4.ノイズとの戦い~清濁併せ飲む

想えば、当時から音楽を聴く者達にとっては宿命と受けとめながらも常に克服したいと挑み続けた大きな課題がある。

そう、ノイズである。

ステレオの電源を投入すればノイズ、レコードに針を落とせばノイズ。カセットテープに編集すればノイズ。
正にノイズまみれの中、音楽にノイズはつきものと割り切って接していかなければならなかった。(清濁併せ聴く?)

時にはレコードを洗剤であらったり、良いレコードクリーナーが出たと聞けばすぐさま入手するなど、維持・管理には相当な手間と費用を費やしたものである。また、カセットテープもクリアな音で聞こうと思えば、テープがヘッドに擦れる際に生ずる「ヒスノイズ」はつきものであった。

進歩の過程においては、ノイズをキャンセルする機能としてドルビー研究所から「ドルビーBタイプ」や更に進化した「ドルビーAタイプ」等のノイズ対策が市場の機種に搭載され一般化されたが、いづれも本来の音がスポイルされ、マニアとして満足のゆくものでは無かった。

そんな中、我が日本が誇るナカミチ研究所のカセットデッキがプロの現場に採用され世界中を席巻した事が今では懐かしい。そんな私も「ZX-9」という中級機種ではあったが当時20数万もするデッキを分割で手に入れ、普及品との大きな表現力の差を実感したものである。

今はどうなっているのか分からないが、デジタルの普及とともに姿を消した、何とももったいないメーカーであり、復活を期待したい。

5.ノイズからの解放

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しばらく過ぎたころからであろうか、行きつけのレコード店の様相に変化が訪れた。それは以前気にかけもしなかった小さなジャケット、そう「CD」である。そのCDの占拠する範囲がどんどん勢力を拡大しつつあったのである。私としても嫌がおうにも関心を向けざるを得ない状況となった。
ある日、行きつけのオーディオ店に出向きCDプレイヤーとメディアに初の対面を果たした。気心知れた店長にデモンストレーション用CDを試聴させて戴いたのだが・・・そこで私は!

ノイズとは全く無縁の実にクリアな音と遭遇してしまったのである。

近眼の人が、初めてコンタクトレンズを装着した時に述べる感想とでも表現しようか。劇的変化を目の当りにし、自分の中で何かが変わるのがわかった。

革命が起きた瞬間である。

以降、数十年、我が家の音楽は80年代洋楽とともにCD盤に依存する事となるのである。

6.何かが足りない~ノイズからの解放とともに失ったもの

何十年となくお付き合いし満足してきた(つもり?)のCD。
「何かが違う」
そう感じ始めたのは、給与収入もあがり、ようやくオーディオ装置にも予算投入が可能になった頃、それなりの装置も揃えた。

きっかけは、米国JBL社製のスタジオモニター「4345W」私は46㎝ウーハーを持ち、お仏壇とそう変わらぬこの巨大なスピーカーの信者になってしまったのである。寝ても覚めても「4345」の事ばかり。実際のところ、私はこのスピーカーが奏でる音を一度も耳にはしていなかった。

ただ、下位モデルであった。38㎝ウーハー「4343W」がかなり高価であるにも関わらず当時のベストセラー機種となり一世を風靡していた為、こんな田舎においても友人宅やオーディオ店などで実際の音に接する事が出来たのは幸いである。それ故に、上位機種である「4345W」に対する期待感は増すばかり、専門家(誌)が奏でる美辞麗句にも洗脳され、勝手な音のイメージをどんどん膨らませていったのである。

当時、日本のオーディオ専門誌やマニアの間では「原音追求」が論議され、ひとつのトレンドであったと記憶しており、スタジオモニターと銘打ったJBL「43」シリーズやアルティック社の「A5」「A7」更にはフルレンジユニットである「604E」や後継機種である「604-8G」等々が脚光を浴びていたように思う。友人や雑誌の投稿者も、こぞって高価なお仏壇を購入し6畳程度の小部屋に無理やり押し込んでは、身の置き場も無い環境でのリスニングを楽しんでいた。

そうこうするうちに、私にとって悲しい知らせが舞い込んできた。何と、購入目標としていた「4345W」が製造中止となってしまったのである。

憧れの念が日増しに強くなっていた私は、いても立ってもいられず、知り合いのオーディオ店に相談し、紆余曲折を経てようやく一人のオーナーから念願の「4345」を譲りうける事ができたのである。

そして、いよいよこのスピーカーを鳴らすに足りうるアンプ探しの旅が始まろうとしていたのだが……。

つづく

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2016年秋から話題沸騰の「恋ダンス」。
もはや説明不要なほどの人気ぶりですが、「恋ダンス」が音楽である以上、それを聴くためのベストなオーディオは必ず存在します。

そこで今回は、恋ダンスを踊ってみた……ではなく、恋ダンスにベストなオーディオを考察してみた、という記事を。

目次

  1. 恋ダンス
    1-1.恋ダンスとは
    1-2.恋
    1-3.振り付け
  2. 逃げるは恥だが役に立つ
    2-1.原作
    2-2.ストーリー
    2-3.登場人物
    2-4.「恋ダンス」「逃げ恥」のまとめ
  3. 恋ダンスにベストなスピーカー
    3-1.ベストなスピーカー
    3-2.製造会社
    3-3.スピーカーの特徴
    3-4.スピーカーユニット
  4. 恋ダンスにベストなプレーヤー(デジタル)
    4-1.ベストなプレーヤー(デジタル)
    4-2.プレーヤーの特徴
  5. 恋ダンスにベストなプレーヤー(アナログ)
    5-1.ベストなプレーヤー(アナログ)
    5-2.プレーヤーの特徴
    5-3.ベストなカートリッジ
  6. それぞれの機器がベストな訳
  7. まとめ

 

1.恋ダンス

1-1.恋ダンスとは

恋ダンスとは、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングで、主演の新垣結衣が披露していたダンスの通称です。初回のエンディングから「ガッキー(新垣結衣)のダンスが可愛い」と評判になったのですが、同ドラマ出演者による恋ダンスが放送されるや、あっという間に日本中で話題に。また、共演者ばかりでなく、安住紳一郎アナウンサーや、プロフィギュアスケーターの織田信成・羽生結弦なども踊る姿が話題となり、2016年末には社会現象となりました。

1-2.恋

恋ダンスのミュージック「恋」は、星野源の9thシングル『恋』に収録されています。ソウルやダンスの要素を持つポップソングで、概ね音楽評論家からの評価も肯定的。中でも現代社会における新しい価値観として「恋の多様性」を歌っている点が高評価の理由のようです。

作詞作曲は星野源。同ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」にも出演している、シンガーソングライター兼俳優です。埼玉県蕨市生まれ、埼玉県川口市育ちです。

1-3.振り付け

振り付けは、Perfumeやプリキュアシリーズの振付を手掛けるMIKIKO。レディー・ガガのワールドツアーの際には、初音ミクとコラボしてオープニングアクトを務め、2016年のリオ五輪の閉会式では五輪旗引き継ぎの芸術パートも担当。そしてダンスは、そんな演出振付家MIKIKOが率いるダンスカンパニー「ELEVENPLAY」。テレビCMにも多数出演する日本屈指のダンスチームです。

世界レベルの振り付け師によるダンス「恋ダンス」。
そんなハイレベルなパフォーマンスなら、是非ともベストなオーディオで聞いてみたいと思いませんか?

そこで今回の記事なのですが、しかしまずはその前に、「恋ダンス」が使われた「逃げるは恥だが役に立つ」や、出演者情報について少しだけおさらいしておきましょう。

2.逃げるは恥だが役に立つ

2-1.原作

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このドラマの原作は、海野つなみの漫画「逃げるは恥だが役に立つ」(Szégyen a futás, de hasznos.)です。「Kiss」(講談社)にて、2012年22号から2017年2号まで連載されました。略称は「逃げ恥」(にげはじ)。

ちなみに、タイトルの「逃げるは恥だが役に立つ」は、ハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.」の和訳です。意味は「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」。とにかく「何やっても生きろ」という格言です。

2-2.ストーリー

一言で言えば、主人公二人の「契約結婚」をテーマにした社会派ラブコメディです。

「契約結婚」と聞くと、若い世代の中では新しいテーマのように感じる方も多いようですが、日本で初めてそれがテーマとなった小説は、石川達三の「僕たちの失敗」(昭和36年の5月から11月にかけて、読売新聞にて連載)です。

石川達三は第一回芥川賞受賞者で、そんな石川のベストセラーを1974年にNHKがドラマ化。主演は荻島真一と酒井和歌子、主題歌は五輪真弓の「落日のテーマ」でした。

1974年と言えば、「フォーク」から「ニューミュージック」への変わり目。井上陽水、吉田拓郎。当時の中高生はみんな、ラジオの深夜放送に夢中でした。

そして、それからおよそ40年後。
再び「契約結婚」がテーマとなったテレビドラマ「逃げ恥」は、またもや空前の大ヒット。きっとロケ地となった各所が「聖地」となって巡礼する方が現れるのでしょうが、とりあえずテレビドラマ版では横浜市が特別協力していて、横浜を舞台に描かれています。

2-3.登場人物

ヒロインは、森山みくり(演・新垣結衣)。
就職活動で一つも内定がもらえず、大学院へ進学するカタチの就職浪人に。しかし、せっかく大学院へ進学して就職へ再チャレンジするも、またもや全滅。そこで派遣社員という道を選ぶものの、そこでは何と派遣切りに。
そんな娘を見かねた父が、元部下・津崎の家事代行サービスを請け負い、ふとしたことから津崎と契約結婚し、家事全般を請け負う「住み込みの家政婦」になります。

もう一人の主人公は、津崎平匡(演・星野源)。
みくりの父の元部下で、京都大学出身のシステムエンジニア。
当初は乗り気でなかったものの、高熱で苦しんでいた時にみくりの気遣いと優しさに触れ、みくりの提案した「契約結婚」に賛同。みくりの「雇用主」となります。出身は山口県。

2-4.「恋ダンス」「逃げ恥」のまとめ

「恋ダンス」は「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングで、星野源・作詞作曲の「恋」のダンスです。
そして星野源は、新垣結衣とともに主役を務めた俳優兼シンガーソングライター。
その星野源は、埼玉県蕨市生まれです。
大事なことなので繰り返します。星野源は、埼玉県蕨市生まれです。

では、お待たせしました。「恋ダンス」にベストなオーディオについて考察してみましょう。

3.恋ダンスにベストなスピーカー

3-1.ベストなスピーカー

「恋ダンス」にベストなスピーカーは、「ALTEC 620A」です。
620Aのスペックは以下の通りです。

 

ALTEC 620A(1975年発売 / 1台358,500円)
■形式:2ウェイ1スピーカー
■エンクロージュア:バスレフ・フロアー型
■周波数特性:20~22,000Hz
■最大入力:45W(連続プログラム)
■出力音圧レベル:103dB
■クロスオーバー周波数:1.5KHz
■インピーダンス:8Ω
■外形寸法:W660×H1016×D457mm
■重量:62.6kg

3-2.製造会社

「ALTEC 620A」の製造会社はアメリカの「ALTEC」です。
正式名称は「Altec Lansing Technologies, Inc.」(アルテック・ランシング・テクノロジーズ・インク)。創設は1937年。当初の社名はアルテックサービス社でした。

そのアルテックサービス社は、集中排除法の適用により解散したE.R.P.I.(米国ウェスタン・エレクトリック社の業務用音響機器部門子会社)の主要メンバーが創立した会社です。そして、1941年にはランシング・マニュファクチャリング社を買収し、社名をアルテック・ランシング変更。あのJBL創設者ジェームス・B・ランシングを技術担当副社長に迎えます。

ランシング在籍中のアルテックは(ランシングは1946年にアルテックを退社し、JBLを創設します)、数々の名ユニットを開発します。2ウェイ同軸型604、ウーファー515、ドライバー288。そして、それらのユニットを用いた劇場用スピーカー「Voice of the Theatre」(ヴォイス・オブ・ザ・シアター)を発表すると、同システムは瞬く間に当時の映画館の標準スピーカーとなりました。

以後、アルテックは50年代から70年代にかけて数々の音響機器を発表し、業務用音響機器業界で高いシェアを確立します。実際1970年代では、全米のレコーディングスタジオのモニタースピーカーや、映画館の大型スピーカーのほとんどはアルテック製でした。

しかし、1980年代には販売が低迷。まずは主力工場だったアナハイム工場を閉鎖すると、1998年にはオクラホマ工場も閉鎖。そしてTelex corporationに編入され、事実上60年余の歴史に終止符を打ちました。

3-3.スピーカーの特徴

1975年に発売されたアルテック620Aは、同軸複合構造ユニット「604-8G」を採用したモニタースピーカーシステムです。もともとはハイクオリティなプロ用機ですが、ホームユースとしても使えます。エンクロージャーはバスレフ構造。外観は明るいオーク仕上げで、サランネットには彫りの深いブラウンのメッシュグリルが使われています。

アルテックらしい抜けの良さが評判で、今でもその気持ちいい聴き心地に虜になる人は多数います。同軸ユニットとあって定位感がしっかりしており、上質で豊かな音が楽しめます。特に50~60年代のジャズとの相性は抜群らしく、サックスやヴォーカルの艶、スネアの皮の振動など、鳥肌が立つような音感がある一方、決して聴き疲れしないジャズ専用スピーカーと呼ぶ人もいます。

3-4.スピーカーユニット

620Aで使われているユニットは、2ウェイ同軸ユニット「604-8G」です。1975年発表、価格は121,000円(ネットワーク付属)。レコーディング・モニターの先駆となったデュプレックス2ウェイ同軸ユニットです。

604ユニットは601ユニットを改良したもので、601は2ウェイ同軸という合理的な「デュプレックス」(コアキシャル・ユニット)のプロトタイプです。601の誕生は、アルテックが設立された1941年。同社の記念すべき第一号モデルで、タンノイのデュアル・コンセントリック・ユニットの開発にも影響を与えたと言われています。

そしてその三年後、601が改良され、604が誕生します。

601から604への主な改良点は4つ。
・アルニコVマグネットによる磁気回路の採用。
・ウーファーのボイスコイル径が、2インチから3インチへ拡張。
・クロスオーバー周波数(1,500Hz)における高域ドライバーのスロープ特性が12dB/octから18dB/octに変更。
・アッテネーターのコントロール範囲がプラス・マイナス20dBに拡大。
こうした改良を経て604は名機と呼ばれるに至り、1973年には「ビルボード」誌は、レコーディング・スタジオで最も広く使われているユニットとして、604ユニットを紹介しています。

「604-8G」はそんな初代604ユニットから数えて6代目のユニットです。低域用磁気回路を貫通させた中高音用ホーンスロートを設ける同軸複合構造で、専用設計のマルチセラーホーンと音像が軸中心上で一致。また、振動板前後での位相差が最小となるよう設計されており、特に4ch以上の音が重なり合う条件下でも良好な分解能を実現。さらに、今まで通り合金ダイアフラム一体エッジを使いながらも振動マスが軽量化されており、ダイアフラム一体エッジの音の良さを維持しつつ、ワイドレンジ特性や過渡応答特性を改善しています。

4.恋ダンスにベストなプレーヤー(デジタル)

4-1.ベストなプレーヤー(デジタル)

恋ダンスにベストなプレーヤー(デジタル)は、「YAMAHA CD-S300」です。
CD-S300のスペックは以下の通りです。

YAMAHA CD-S300(2009年発売、希望小売価格41,000円)
■再生メディア:音楽用CD、CD-R/RW(MP3、WMA再生可)
■iPod対応機種:iPod classic、iPod nano(第2~6世代)iPod touch(第1~4世代)
■周波数特性:2Hz~20kHz
■高調波歪率:0.003%以下
■ダイナミックレンジ:96dB以上
■SN比:105dB以上(JEITA)
■出力端子:光デジタル1、同軸デジタル1、アナログRCA1
■入力端子:USBポート1
■消費電力:13W
■外形寸法:W435×H86×D260mm
■質量:3.5kg

4-2.プレーヤーの特徴

恋ダンスにベストなプレーヤー(デジタル)「CD-S300」の主な特徴は3つあります。

4-2-1.ピュアオーディオ再生に徹した高音質設計

電源部・デジタル部・オーディオ部の各基板がブロック化されており、相互干渉は最小限に抑制されています。また、レイアウトは細部まで配慮されていて、「オーディオ回路の左右対称化」「音声信号が通過する経路最短化」が設計に織り込み済み。その結果、高い純度のままの音声信号を維持し、正確な音場再現を可能にしています。

さらに、オーディオ用として高評価の192KHz/24bit対応バーブラウン高精度DACの採用。その上、デジタル出力回路の停止とともにディスプレイは消灯し、より高品位なアナログ音声出力を実現するピュアダイレクトモードを装備。こうした高音質設計により、CD-S300は本格的なCD再生専用機としてナチュラルで高純度な音を再現しています。

4-2-2.iPodのデジタル接続にも対応した前面USB端子

本体前面にUSB端子が装備されているため、USBメモリーやUSB携帯音楽プレーヤー(USBマスストレージ)を接続して、手軽にデジタル音楽ファイルを再生することができます。

また、USB端子より入力されるiPodやUSBのオーディオデータは、CD-S300の光/同軸デジタル端子よりPCM出力。デジタル入力搭載のアンプやオーディオシステムへ、デジタル信号のまま転送することができます。

iPodのデジタル接続にも対応しており、iPod付属のUSBケーブルをCD-S300の前面USB端子に接続すれば、iPodの音楽をデジタル信号のまま入力し、CD-S300内蔵D/Aコンバーターにより高音質な音楽鑑賞が可能です。もちろん、iPod再生中はiPodの充電が自動的に始まるほか、CD-S300のリモコンによるiPodの基本操作(再生、一時停止、スキップ+/-、FF/REWなど)も可能です。ただし、ディスプレイ表示に関しては、iPod側は通常表示され、CD-S300側のディスプレイにもiPodの曲情報(曲名・アーティスト名・アルバム名)は表示されますが、日本語表示には対応していません。

4-2-3.アルミフロントパネルを採用した高品位なデザイン

CD-S300のデザインは、YAMAHAの高級CDプレーヤー「CD-S1000」のテイストを継承しています。

CD-S1000は、2008年に発売されたSACDプレーヤです。日本ではあまり話題にはなりませんでしたが、欧州では2008~2009年のEISA AWORD(2-Channel System)を受賞するなど、高い評価を得ています。(EISAは欧州のオーディオ、ホームシアター、ビデオ、カメラなどの雑誌が加入する協会)

シンプルで美しいパネルデザインに、使いやすい操作レイアウト。フロントパネルはシルバーヘアライン仕上げのアルミ製。さらに、YAMAHAの新しいアイデンティティである薄型CDトレイも採用。CD-S300は、見るオーディオとしても大変人気のあるCDプレーヤーです。

5.恋ダンスにベストなプレーヤー(アナログ)

星野源の「恋」にレコード盤はありません。しかし、もしレコード盤があったとしたら……。そんな前提で考察してみました。

5-1.ベストなプレーヤー(アナログ)

「恋ダンス」にベストなアナログプレーヤーは、「DENON DP-59L」です。
DENON DP-59Lのスペックは以下の通りです。

DENON DP-59L(1984年発売、希望小売価格89,800円)
《フォノモーター部》
駆動方式:DENONクォーツ。両方向サーボ式ダイレクトドライブ
回転数:33 1/3rpm&45rpm(電子ブレーキ付)
回転数微調整:±9.9%・0.1%ピッチ(DP-59L)
ワウフラッター:回転系 0.008%W.rms以下 / JIS測定法 0.02%W.rms以下
SN比(DIN-B):82dB以上
電源電圧特性:90~110Vの変動に対して0%
ターンテーブル:アルミダイカスト32.5cm 2.2kg
起動時間(331/3rpm時):1.6秒以内

《トーンアーム部》
形式:スタティックバランス形電子ダンピング機構付トーンアーム パイプ部交換可能
アンチスケーティング :無接触電子式
有効長/オーバーハング:244mm/14mm
針圧調整範囲:1回転1・0~3g(1目盛0.1g)
適合カートリッジ重量 :約3g~14g(ねじ類を含む) / 約11g~25g(シェル等を含む)
交換用ストレート形アームパイプ :PCL-59

《その他》
キャビネット:木製・表面木目調鏡面仕上げ
電源:AC100V 50/60Hz
消費電力:9W
外形寸法(ダストカバーを閉めた状態):W490×H219×410mm
重量:約15kg

5-2.プレーヤーの特徴

1984年発売のDP-59Lは、それまでDENONが培ってきた伝統の技術を継承しつつ、電子制御アームなどの新しい技術を投入した高性能プレーヤーです。DP-59Mとの違いは、レコードが終わるとアームが上り回転が停止する無接触構造のオートリフトアッププレーヤである点だけです。

プレーヤーにとって最も大切なのはモーター部ですが、このモーターにはシンプルな構造の「ハイトルク・AC・サーボモーター」を採用し、直径32.5cmで重量2.2kgの大型ターンテーブルを余裕をもってまわします。

構造がシンプルなので故障が少なく、原理的にトルクムラが少ない滑らかな回転を持つのも特徴です。また、コキングのない低重心設計モーターに、直径10mmの超硬材ステンレススチール削り出しシャフトを使用。さらに、モーターハウジングはオールダイカスト製で、ターンテーブルの水平方向の微振動をも解消。重量級のターンテーブルを下部からがっちり支える構造で、シャフトの振れが少ないどっしりした回転を実現しています。

スピード検出には1000発の磁気記録検出方式を採用。1秒間に555.55回(33・1/3回転時)もチェックする高精度なスピード検出を行い,水晶発振による位相制御で回転速度の小刻みなバラツキを抑制、回転偏差0.002%という回転精度を実現しています。

また、DP-59Lはピッチコントロールが装備されており,液晶表示カウンターの表示を見ながら±9.9%のスピード可変が0.1%刻みで可能です。

アームは「Dynamic Servo Tracer(ダイナミック・サーボ・トレーサー)」を搭載し、レコードにひそむソリや偏芯などの低域共振を排除、あくまでピュアーな音質再生を実現しています。また、高級OFC(無酸素銅線)を11本より合せ、内部抵抗を減少、重厚な低域とクリアな高域再生を獲得しています。

5-3.ベストなカートリッジ
恋ダンスにベストなカートリッジは、モノラル盤なら「DENON DL-102」、ステレオ盤なら「DENON DL-103」です。
DL-102は103の前身で、放送局用モノラル専用です。MM端子に直結できる高出力モノラル専用MCです。

DL-102の主な仕様
■出力電圧:3mV
■再生周波数:50Hz~10kHz
■インピーダンス:240Ω
■適合負荷:1kΩ以上
■針先:17ミクロンダイヤ丸針
■針圧:3±1g
■自重:13g
■針交換価格:17,600円(税抜)

DL-103は50年もの間、性能・仕様を変えずに生産され続けているカートリッジです。
現在も放送局など第一線で活躍する、信頼のMCです。

DL-103の主な仕様
■出力電圧:0.3mV
■再生周波数:20Hz~45kHz
■インピーダンス:40Ω
■針先:16.5ミクロン丸針
■針圧:2.5±0.3g
■コンプライアンス:5×10-6cm/dyne
■自重:8.5g
■針交換価格:22,800円(税抜)

6.それぞれの機器がベストな訳

恋ダンスにベストなオーディは以下の通りです。

スピーカーは「ALTEC 620A」
CDプレーヤーは「YAMAHA CD-S300」
レコードプレーヤーは「DP-59L」(カートリッジはモノラル盤なら「DENON DL-102」、ステレオ盤なら「DENON DL-103」)

では、なぜ「恋ダンス」にはこれらのオーディオがベストなのでしょう。
答えは星野源に関係があります。
実は、星野源の両親は埼玉県蕨市でジャズ喫茶をやっていて、そこで鳴らしているのが上記オーディオセットなのです。

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もともとは、源の祖父が川口市内で八百屋を営んでおり、一時は源の父も後を継いで八百屋を経営していました。しかし、祖父が亡くなると廃業。そして10年ほど前に、自宅1階にジャズ喫茶をオープンさせます。源の父はジャズ・ピアニストを、母はジャズ・シンガーを目指していたこともあって、ジャズは両親の共通の趣味でした。

お店の名前は「signal」。源の父が好きなレコードのレーベルが由来です。

しかし、このジャズ喫茶「signal」は、2016年10月22日に閉店しています。原因は、星野源ファンの聖地巡礼でした。2015年の紅白歌合戦に出場した頃から聖地巡礼は始まり、「逃げ恥」が始まって2週間で、お店は完全に「ジャズ」を失ったようです。ジャズに全く興味のない若い女性が殺到し、なごみを売りにしていた同店内を歩き回って、他の人の迷惑も考えずに写真を撮りまくったようです。

10月22日を持ちまして閉店致しました
長らくのご愛顧ありがとうございました
signal店主

ドアにそんな張り紙が張り出され、オーディオファンに惜しまれつつ閉店に至りました。

星野源の聖地巡礼者から「逃げるは恥」だったかは私にはわかりかねますが、閉店は少なからず、源の両親の老後の生活に「役に立つ」行動だったことは間違いないでしょう。

7.まとめ

星野源の音楽センスは、ジャズ・ピアニストを目指した父と、ジャズ・シンガーを目指した母から受け継いだものでしょう。だから「恋ダンス」には、二人が営んでいたジャズ喫茶のオーディオがベストなんです。

スピーカーは「ALTEC 620A」
CDプレーヤーは「YAMAHA CD-S300」
レコードプレーヤーは「DP-59L」(カートリッジはモノラル盤なら「DENON DL-102」、ステレオ盤なら「DENON DL-103」)

ドラマも終わり、楽曲の利用には制限がかかってしまいましたが、個人で楽しむ範囲でなら自由です。
ぜひ上記セットで「恋」を鳴らし、キレキレな「恋ダンス」を踊りましょう。

あなたとオーディオの絆の強さが、「夫婦を超えていけ」と願いつつ。

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オーディオ買取屋のある松本市は、「3ガク都」として知られています。学問・山岳・音楽。この3つの「ガク」がその言われです。

その中でも、特に音楽の「楽都」としては非常に高い知名度を誇ります。そうです。毎年夏になると、あの「セイジオザワフェスティバル」(旧サイトウキネンフェスティバル)が開催され、世界的に評価の高い日本人指揮者が松本にやってくるからです。

小澤征爾。

その名を聞けば、おそらく多くの方が「天才」というワードを思い浮かべることでしょう。確かに小澤征爾は天才です。いくつもの賞を受賞しており、先日(平成28年10月3日)も東京都の名誉都民に選ばれたばかりです。

が、そんな天才・小澤征爾にも、少なからず苦労はありました。本当は指揮者を志していなかったかもしれないし、NHKとも色々あったと言われています。そこで今回は、その輝かしい受賞歴とその裏側の秘話を三回に分けてご紹介いたします。

  1. 若かりし頃の小澤征爾
    1-1.ピアノとの出会い
    1-2.クラッシックとの出会い
    1-3.学生・小澤征爾
  2. 海を渡った小澤征爾
    2-1.始まり
    2-2.二人の先生
  3. アメリカでの活躍
    3-1.クーセヴィツキー賞
    3-2.ラヴィニア音楽祭
  4. まとめ

 

1.若かりし頃の小澤征爾

1-1.ピアノとの出会い

小澤征爾は1935年9月1日、満洲国奉天市(中国瀋陽市)で生まれます。そして6歳までその土地で暮らしますが、1941年3月、母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園します。

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1942年4月、小澤征爾は立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学し、あるとき長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けます。が、これが一家に大きな衝撃を与えます。家族全員、小澤征爾の音楽に対する才能を感じずにはいられなかったのです。そこですぐ、本格的なピアノのレッスンを始めさせるべく、父親が方々ツテを探し、横浜市白楽の親類から3千円でアップライトピアノを譲ってもらいます。が、当時の小澤家にとって3千円は大金でした。そこで小澤征爾の父親は、自分が愛用していたカメラ「ライカ」を売ってお金を何とか工面します。さらに、そのピアノの運送についても逸話があります。なんと父親と長兄と次兄の三人がピアノをリアカーに縛りつけ、3日かけて横浜から立川市の自宅まで運搬したそうなのです。

それが1945年のこと。小澤征爾は戦争の終わりの年に、初めて自宅でピアノを触るのです。そして翌年(小澤征爾小学5年生)、初めて人前でピアノを演奏。曲はベートベン「エリーゼのために」でした。

1-2.クラッシックとの出会い

ちょうどその頃、小澤征爾はクラッシック音楽にも触れるようになります。次兄の同級生に鈴木次郎というレコードマニアがいて、小澤征爾はその人の家で頻繁にレコードを聴きます。バリトンのゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルトの「冬の旅」、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」。多くの名曲をレコードで聴き、そうやって1曲1曲、うんと空気を吸い込むようにして、小澤征爾は音楽を体に染み込ませます。

1-3.学生・小澤征爾

1947年、小澤征爾の父親がミシンの会社を起こしたことをきっかけに、一家は神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)に転居します。そしてその翌年の1948年に、成城学園中学校に入学。ラグビー部に所属する一方、豊増昇にピアノを習います。当時は小田急小田原線で「新松田」から「成城学園前」まで、小澤征爾は片道2時間かけて通学していたそうです。

1951年には、小澤征爾は一旦は成城学園高校に進学しますが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学することとなります。(桐朋女子高校音楽科は、齋藤の肝煎りで設立された学科で、同門には秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子らがいます)

そして小澤征爾20歳の1955年には、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学し、1957年夏に同短期大学を卒業。その年には群馬交響楽団で振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当します。
さらに1957年12月、小澤征爾は日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル「子供と魔法」にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめます。

国内でここまで認められていた小澤征爾ですが、1958年のフランス政府給費留学生の試験では、残念ながら合格することはできませんでした。それでも、成城学園時代の同級生の父・水野成夫たちの援助で渡欧資金が調達できると(支援金は1200ドル。日本円で約45万円にものぼったと言われています)、1959年2月1日、スクーターとギターとともに貨物船で単身渡仏。
こうして海を渡った小澤征爾は、そこから様々な賞をいくつも受賞するのです。

 

2.海を渡った小澤征爾

2-1.始まり

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まずは渡欧した1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、つづいてカラヤン指揮者コンクールでも優勝します。

ブザンソン国際指揮者コンクールは1951年に創設され、例年9月中旬に2週間かけて開かれる世界的に有名なコンクールです(創設以降1992年までは毎年行われていましたが、その翌年からは隔年開催となりました)。指揮部門と作曲部門があり、日本ではそれぞれ独立させて「ブザンソン国際指揮者コンクール」、「ブザンソン国際作曲コンクール」などと表記します。予選の応募資格は「35歳までという年齢制限」があるのみで、書類選考はありません。ただ、「ブザンソン国際指揮者コンクール」について言えば、世界では「指揮者の登竜門」と認識されています。小澤征爾が受賞してからも、松尾葉子,佐渡裕,沼尻竜典,阪哲朗,下野竜也,山田和樹、垣内悠希が優勝し、誰もが世界的指揮者として活躍されています。

カラヤン指揮者コンクールは、その名の通り名指揮者と名高いカラヤンが弟子をとるために開いたコンクールです。小澤征爾が受けたときは50人ほどの応募者がいたのですが、小澤征爾は見事合格。晴れてカラヤンに師事することとなります。

が、こうして小澤征爾はカラヤンに弟子入りするわけですが、一方でバーンスタインにも師事します。これは本当にすごいことでした。というより、当時では考えられないことでした。

2-2.二人の先生

カラヤン(ヘルベルト・フォン・カラヤン:Herbert von Karajan、1908年4月5日-1989年7月16日)は、カール・ベーム(1894-1981)と並び称される20世紀を代表する指揮者です。1955年より三十年以上に渡りベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督なども兼任。また、残した録音の数は膨大で、映像として音楽を残すという新しい形態を定着させ、日本では「楽壇の帝王」と称される人物です。

ただ、カラヤンはバーンスタインとは非常に不仲でした。
バーンスタイン(レナード・バーンスタイン:Leonard Bernstein、1918年8月25日 – 1990年10月14日)は、史上最高のマーラー指揮者と言われている人物です。しかし、カラヤンはそんなバーンスタインの、ベルリンフィルへの客演を徹底的に妨害したと言われています。「ヨーロッパではカラヤン、アメリカではバーンスタイン」と言われている時代だったから、互いに強いライバル心を持っていたのでしょう。

とにかく、そんな不仲の二人が、同時に小澤征爾を可愛がったというから驚きです。

後に、小澤征爾はこう語っています。
「タングルウッドの直後にベルリンでカラヤン先生の弟子になるコンクールに通って、すぐ後にニューヨーク・フィルでバーンスタインの副指揮者にならないかという誘いがきました。恐る恐るカラヤン先生に、ニューヨーク・フィルの件を切り出すと、意外にも『セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい』と温かく送り出され……」

いずれにせよ、小澤征爾はこうして二人の天才指揮者(しかも不仲)に師事するのです。そしてこの二人との親交は生涯にわたり築かれたと言われています。

 

3.アメリカでの活躍

3-1.クーセヴィツキー賞

1960年、小澤征爾はアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞します。

バークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)は、世界的に有名な音楽祭です。セイジオザワフェスティバルの総鑑賞者が8万人強であるのに対し、タングルウッド音楽祭は期間中の観客数が35万人にのぼることを思えば、いかほどの音楽祭かは想像ができると思います。

そして1961年、ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任すると、同年にはニューヨークフィルの来日公演にも同行。さらに1964年には、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。小澤征爾は急遽、音楽監督として就任します。

3-2.ラヴィニア音楽祭

ラヴィニア音楽祭は、アメリカで最も歴史のある野外音楽祭です。「ラヴィニア」という愛称だけでシカゴの人々に通じるこのコンサート劇場は、100年以上も昔から世界中の人々の憩いの場所になっています。シカゴ交響楽団の夏季のベース・コンサートホールでありつつ、同時にジャズ、オペラ、ポップからバレーまでと、幅の広いコンサートの場であり、毎年100以上にのぼる多彩な演劇が企画されます。過去にはルイ・アームストロング(Louis Armstrong)やレナード・バーンステイン(Leonard Bernstein)、ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)やルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti)など、それぞれがそれぞれの分野で名声をあげた人々が絶えずこのステージで公演してきました。

小澤征爾がそんな歴史ある音楽祭の音楽監督を引き受けたのは、1964年の音楽祭の、まさに2日後にはシカゴで練習が始まるタイミングでした。依頼があった曲目は、グリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。さらに、あまりに急な話だったこともあって、手元に楽譜もない状態でした。そこで急遽バーンスタインのスタジオに駆け込み、不在のバーンスタインに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらうと、楽譜棚からスコアを借りてしゃかりきに勉強します。

そうして、何とか無事に音楽会を終えるわけですが(というより、大成功を収める訳ですが)、その後に開かれた盛大なパーティーで、ラヴィニア音楽祭の会長「アール・ラドキン」が小澤征爾にこう言います。「君にこの音楽祭をあげよう」。しかし、当時の小澤征爾はまったく外国語が理解できませんでした。そのため、マネージャーのロナルド・ウィルフォードは、小澤征爾が監督就任の記者発表間近になってもアメリカに戻ってこないため、不安になって電話をします。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるからすぐ戻って来い」。それで小澤征爾は驚きます。そうです。彼はそこで初めて、自分がラヴィニア音楽祭の音楽監督を務めることを認識するのです。そしてその年から1969年まで、小澤征爾はラヴィニアで毎夏指揮します。

ただ、一方では(主に地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」などからは)、小澤征爾は徹底的に批判されました。「ラドキンはなぜこんな奴を雇ったのか」「シカゴ交響楽団のような偉大なオーケストラが、なぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあったほどです。

これに音楽的抗議をしたのが、シカゴ交響楽団でした。

その夏の、最後の音楽会のことでした。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で小澤征爾は呼び戻されます。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器も、めちゃくちゃな音を鳴らし始めました。

「シャワー」でした。

小澤征爾はこう語っています。「シャワーを経験したのは生涯で後にも先にもその1度きり。そして、後々に分かったことなのだが、あのシャワーはシカゴ・トリビューンへの抗議を込めたものだったらしい」と。小澤征爾は、急な代役であったにもかかわらず音楽祭を成功させ、シカゴ交響楽団がめいっぱい味方してくれる程の信頼関係を築いていたのでした。

ちなみに、そのシカゴ交響楽団とはRCAレーベルやEMIレーベルに複数の録音を残します。これは非常に画期的なことでした。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮し、国際的な一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外マーケット向けに複数発売することなどまるで前例がなかったからです。

 

4.まとめ

「音楽で紐解く小澤征爾(前編)」は、ここまで。
次回はいよいよ実績も築き始め、「世界の小澤征爾」となる話です。

では、近々「音楽で紐解く小澤征爾(中編)」でお会いしましょう!

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オーディオ買取屋のある長野県松本市では、毎年セイジオザワフェスティバルが行われます。

そして、その総監督である小沢征爾が、平成28年10月3日、東京都の名誉都民に選出され、都庁で行われた名誉都民顕彰式に招かれました。受賞者は、昨年のノーベル生理学・医学賞受賞者で北里大特別栄誉教授の大村智や、1964年の東京五輪、68年のメキシコ五輪の重量挙げ金メダリストで東京都ウエイトリフティング協会会長の三宅義信。

そこで今回はこの栄誉を記念して、小澤征爾の家族や家系について調べてみました。

  1. 両親
  2. 兄弟
  3. 結婚
    初婚
    再婚
  4. 子供
  5. 師・齋藤秀雄との関係
  6. まとめ

 

1.両親

小澤征爾の父は山梨県出身、東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒で、歯科医院を開業していた小澤開作です。政治運動にものめり込んでいて、満州国協和会創設者の一人で民族主義者でした。満州事変の首謀者となった陸軍大将の板垣征四郎と、帝国陸軍の異端児と呼ばれた石原莞爾は同志で、「征爾」は彼ら二人の名前から一字ずつもらったものと言われています。

一方、母・さくらは仙台出身のクリスチャンで、日本や中国の政治関係者や教会関係者がよく遊びに来るにぎやかな家で育ちました。子供たちに小さい頃から賛美歌を歌わせていたことも、おそらく育った環境が関係あるのでしょう。

 

2.兄弟

小澤征爾は四人兄弟の三男です。長男・克己は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、四男・幹雄は俳優と、兄弟全員が文化的活動をされています。

一方で、小澤家は経済界とも関わりを持つ一家です。
次男・俊夫は下河辺牧場の創業者・下河辺孫一の次女・牧子と結婚し、経済界の名門家系である下河辺家と閨閥で繋がっています。

下河辺家といえば、下河辺孫一の父・下河辺建二は日本鉱業(現・ジャパンエナジー)の社長や日産農林工業(現・兼松日産農林)の会長等を歴任した実業家で、牧子の叔父・下河辺三史は日製産業(現・日立ハイテクノロジーズ)の社長を務めたことで有名です。なお、下河辺三史は元首相・芦田均の娘婿です。そのため、小澤家は下河辺家を通じて芦田家と姻戚関係で結ばれているといえるので、政界にも血筋を持つ一家となります。

 

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ところで、次男・俊夫と牧子夫妻は2男をもうけ、その次男はミュージシャンの小沢健二です。
小沢健二は1988年に東大文Ⅲに入学。それと同時に中学時代テニス部で一緒だったコーネリアスこと小山田圭吾から誘われ、ロリポップ・ソニックに参加。そして1989年8月にフリッパーズ・ギターとしてデビューし、全作英語詞という当時の邦楽シーンでは異例のアルバムにも関わらず、30万枚の売り上げ枚数を記録します。

その後フリッパーズ・ギターは解散し、小沢健二はヒップホップ・グループのスチャダラパーと共演するのですが、1994年には「今夜はブギー・バック」が50万枚を超える大ヒット。これにより日本でのラップ・ミュージックやヒップホップのポピュラー化を促すこととなり、小沢健二自身も2年連続の紅白出場を果たします。

1998年『知ってるつもり?!』(淡谷のり子特集)にコメンテーターとして出演して以降、2014年まで16年間テレビ出演はありませんでしたが、2014年に「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演。ボーダーシャツがあまりに似合っていたことから、「奇跡の40代」と話題になりました。

 

3.結婚

3-1.初婚

さて、小澤征爾は二度結婚しています。
初婚は1962年、相手は三井不動産社長・江戸英雄の娘で、ピアニストの江戸京子。互いに桐朋女子高校の第1期生同士でした。交際当初は、江戸英雄は娘の気の強さと強烈な個性を理由に小澤征爾との交際に反対していましたが、小澤征爾が江戸家に入りびたっていたこともあり、結局、江戸英雄は二人の仲を認めざるを得なくなり、月20万円(一説では50万円)もの援助をすることとなります。

しかし、二人は四年後に離婚。原因はまことしやかに二つの事柄がささやかれています。

一つが、婚姻中、練習で疲れて帰ってくる小澤征爾が「もう音はもう聴きたくない」と言って、元妻・江戸京子のピアノの練習を拒絶したこと。
もう一つが、当時の小澤征爾はカラヤン指揮者コンクール優勝などを経て「世界の小澤征爾」としてスターと化しており、銀座のバーの女性やモデル・入江美樹との噂が絶えなくなったことです。

ひょっとすると、あるいはその両方が原因かもしれませんが、いずれにせよ二人は離婚。そして小澤征爾は離婚後の1968年、白系ロシア人貴族のハーフでモデルの入江美樹と再婚します。
3-2.再婚

入江美樹はロシアと日本人のハーフ(父親がロシア人のヴィタリー・ペトロヴィチ・イリーン、母親が日本人の料理研究家・入江麻木)で、本名はヴィラ・ヴィダリエヴナ・イリーナ。1968年、小澤征爾との結婚以降は小澤ヴェラと名乗ります。職業はファッションモデル兼デザイナー。彼女の手掛けたブランドはレディスブランド「ザ・ギンザ・バイ・ミズ・ヴェラ」。

高校時代に母親がファッション雑誌「装苑」のモデル募集に応募して1位に選ばれモデルデビュー。その後、第1回国際ファッション大会で1位入賞、日本テレビ系『シャボン玉ホリデー』にマスコットガールとして出演を果たすと、第16回NHK紅白歌合戦の審査委員にも抜擢されます。また、女優としても活躍しており、1966年には勅使河原宏監督の映画『他人の顔』に出演します。

そんな美人と再婚した小澤征爾ですが、当時の世評は「美女と野獣婚」。

これにはセイジオザワフェスティバルが開催される松本市民として怒りを覚える次第ですが、「美女と野獣」の野獣は、魔法がかかった仮の姿。本来はスマートな王子であることを鑑みれば、まあ悪い表現ではないのかもしれません。

二人の結婚生活は今も続いており、二人の子宝に恵まれます。

そして、これは全くの余談ですが、歌手の吉田拓郎は入江美樹の大ファンだったことから「入江剣」というペンネームを名乗っています(実際、酒井法子へ「幸福なんてほしくない」を提供しています)。

 

4.子供

小澤征爾には2人の子供がいます。
1971年誕生の長女・小澤征良(せいら)と、1974年誕生の長男・小澤征悦(ゆきよし)です。

長女の小澤征良は12月29日生まれで、出身地はサンフランシスコ。
Seiraという名前は、父の名のSeijiと母の名のVeraを継ぎ足して命名されたそうです。メトロポリタン歌劇場で演出を学んだり、日本ではテレビ番組のリポーターを務めたり、最近ではエッセイストとしての活躍が顕著です。

2002年出版の「終わらない夏」はベストセラーとなりとても話題になりましたが、「往復書簡 いま、どこですか?」は、親友である杏と共同で書いたエッセーで、北海道を旅したときの手紙です。

一方、長男の小澤征悦は9月6日生まれで、出身地はカリフォルニア州。
テレビ・映画・舞台と幅広い活動をこなす俳優です。ドラマ「ハンチョウ~警視庁安積班~」や映画「脳男」でご覧になった方も多いのではないでしょうか。

身長は183センチあり、小澤征爾と同じくモテ男として有名で、姉・小澤征良の親友の杏やMISIAとの2股疑惑、滝川クリステルとの交際&破局などは記憶に新しいことでしょう。
また、気質も父・小澤征爾と似ているらしく、二人はまるで親友のような関係とも言われています。

二人は小澤征爾の子供ですが、小澤征爾の父・開作から見れば、小沢健二とともに孫にあたります。つまり、小澤征爾は小沢健二の叔父、小澤征良と小澤征悦は従兄弟となります。

 

5.齋藤秀雄との関係

サイトウ・キネン・オーケストラは1984年、恩師である齋藤秀雄の10周忌にあたり、小澤征爾と、同じく斎藤秀雄の門下生で指揮者の秋山和慶の呼びかけにより、桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ演奏会を開催したことから始まります。世界各地で活躍する齋藤の教え子たちが集まっての演奏でしたが、設立当初は無給出演でした。

それほどまで小澤征爾は斎藤秀雄を慕っていたのですが、齋藤もまた小澤征爾を随分可愛がっていたようです。というのも、高校時代の小澤征爾は、齋藤秀雄から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたらしいのですが、ある日のことです。あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我したそうなのです。

いずれにせよ、深い師弟関係にあったことは間違いないのですが、実は二人は遠戚関係にもありました。

小澤征爾の母・小澤さくらは若松孝太と春代の娘で、春代は大津義一郎となおの娘、大津義一郎は大津隆三郎の息子です。
一方、大津隆三郎の娘・久は前島美孝と結婚して娘・とらを生み、彼女は英語学者・齋藤秀三郎と結婚して齋藤秀雄を生みます。

二人はまったくの赤の他人ではなかったのです。
参考:http://kingendaikeizu.net/ozawaseizi.htm

 

6.まとめ

さすが世界の小澤征爾です。
血縁者は政界から経済界へと幅広く、その一族は華々しい。兄弟も皆文化人として活躍され、自分の子供二人もまた、華やかな場で活躍されています。そして驚きなのが、師事していた斎藤秀雄と遠戚だったことです。これを知った時、小澤征爾はどんな心境だったのでしょうか。

しかし、そこまでの一族であり、大スターである小澤征爾ですが、その地位に至るまでに何の苦労もなかったのかといえば、どうやらそうではないようです。
名立たるコンクールで優勝を収めた後、師事していたバーンスタインと共に凱旋帰国した際の小澤征爾は、すでに国内ではスターでした。しかしそんなスターでも、小澤征爾は自分が指揮する楽曲の譜面も買えないほど経済的に困窮していたそうです。音楽の道とはそれほどまでに険しいものなのです。

そこで次回は、セイジオザワ・フェスティバルの開催地であり、オーディオ買取屋のある松本市から、小澤征爾の歩みと受賞歴をお届けします。
また近い日におめにかかります。
それまで皆様お元気で。

夏が近づくと、必ず一度は耳にする言葉「夏フェス」。その中でも、フジロックは今年の2016年で20周年を迎えた老舗ロックフェスで、毎年苗場スキー場にて開催される日本では最も有名な夏フェスの一つです。

しかし、そんなフジロックよりも歴史が長く、世界でも類を見ないクラシックの祭典があります。それが、セイジ・オザワ松本フェスティバル(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)です。毎年8月から9月にかけて開催されるとあって、クラッシックの夏フェスとも呼ばれています。

セイジ・オザワ松本フェスティバル公式サイト

このフェスティバルの開催期間中は、日本はもとより、世界中からクラシックファンが信州に集まります。それも、オーディオ買取屋がある松本に。

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そこで今回は、2016年のセイジ・オザワ松本フェスティバルの魅力を徹底的にご紹介します。

目次

  1. セイジ・オザワ松本フェスティバルとは
  2. プログラム
    2-1.オーケストラ コンサート
    2-2.オペラ
    2-3.室内楽
    2-4.セイジ・オザワ 松本フェスティバル Gig
    2-5.教育プログラム
    2-6.オープン イベント
  3. 日本一のCDコンサート実現か
  4. まとめ

 

1.セイジ・オザワ松本フェスティバルとは

セイジ・オザワ松本フェスティバル(Seiji Ozawa Matsumoto Festival;OMF)は、毎年8月から9月にかけて、長野県松本市で行われる音楽祭です。旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本(Saito Kinen Festival;SKF )。1992年、恩師「斎藤秀雄」の名を冠して小沢征爾が創立したクラシック・フェスティバルです。

演奏は、サイトウ・キネン・オーケストラ(略称 SKO)がメインです。そして、そのメンバーは、もともとは齋藤秀雄に師事した演奏家が中心でしたが、近年では年齢やスケジュールの都合などを理由に、斎藤の孫弟子(小澤の弟子)や小沢征爾の知人である外国人演奏者が目立ってきています。

主な会場は、まつもと市民芸術館や長野県松本文化会館。演目は、オーケストラやオペラ、室内楽など多彩で、2010年の武満徹メモリアルコンサート以降は、ジャズのプログラムも組まれるようになりました。

そして、OMFの大きな特色である教育プログラムの公演では、若い音楽家の教育のみならず、数多くの小・中学生たちに生の音楽に触れてもらおうと、長野県内の小学6年生は子供向けのコンサートに、中学1年生は青少年向けのオペラに招待しています。

世界最大級のクラッシック音楽祭「セイジ・オザワ松本フェスティバル」。
こんなイベントが松本市で毎年行われていることも関係あって、実は松本市は「楽都」と呼ばれています。

2.プログラム

プログラムは大きく6つに分かれます。
「オーケストラ コンサート」「オペラ」「室内楽」「セイジ・オザワ 松本フェスティバル Gig」「教育プログラム」「オープン イベント」です。
では、それぞれを見てみましょう。

2-1.オーケストラ コンサート

オーケストラ コンサートは、AとBがあります。
2016年は、Program Aは8月18日と8月22日に、キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)にて、Program Bは8月19日と8月21日に、同じくキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)にて開催されました。
Program Aでは、当初は「ブラームス:交響曲 第4番 ホ短調 Op.98」(演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ、指揮:小澤 征爾)が予定されていましたが、欧州で体調を崩された小澤さんの体力が十分に回復していないことから、体への負担が少ない曲「ベートーヴェン:交響曲 第7番 イ長調 Op.92」へと変更されました。

同曲は1993年にSKOと松本で初めて演奏して以来、実に23年ぶりの共演でした。

Program Bでは、”マーラー:交響曲 第2番 ハ短調「復活」”(演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ、指揮:ファビオ・ルイージ、ソプラノ:三宅 理恵、アルト:藤村 実穂子、合唱:OMF合唱団、東京オペラシンガーズ、合唱指揮:松下 京介)が演奏されました。

2-2.オペラ

9月6日と9日、まつもと市民芸術館・主ホールにて演奏されたのが、小澤征爾音楽塾オーケストラによるOMFオペラ”ラヴェル:「子どもと魔法」”。
このオペラは、小澤さんが駆けだしの頃、アシスタントとして最初に勉強した思い出深い曲です。

しかし、こちらも体調面で大事をとる運びとなり、当初は小澤さんが指揮をとる予定でしたが、エリック・ミーリアへと指揮者が変更されました。

2-3.室内楽

今年も例年通り、「ふれあいコンサート」として、フェスティバルに集まった名手たちによる室内楽公演が開催されました。
日にちは8月20日(ふれあいコンサート I)と27日(ふれあいコンサート II)。会場は両方とも、ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール)。

ふれあいコンサート Iでは、出演はミケランジェロ弦楽四重奏団とヴィオラ・佐々木 亮、チェロ・趙 静。曲目は「ボッケリーニ:弦楽五重奏曲 ハ長調 Op.28-4 G.310」「バルトーク:弦楽四重奏曲 第3番 Sz.85」「ブラームス:弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 Op.18」。

ふれあいコンサート IIでは、「バッハ:フルート・ソナタ 変ホ長調 BWV1031」に始まり、「ルーセル:セレナード Op.30」「ラヴェル: 序奏とアレグロ」「チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲 イ短調 Op.50『偉大な芸術家の思い出に』」が、若手名手により演奏されました。

2-4.セイジ・オザワ 松本フェスティバル Gig

今年の「セイジ・オザワ 松本フェスティバル Gig」は、非常に注目されていました。というのも、サイトウ・キネン・フェスティバル時代から共演を重ねるマーカス・ロバーツ・トリオを迎え、マーカス・ロバーツへの委嘱作品「ラプソディー・イン・ディー」の初演だったからです。

この「ラプソディー・イン・ディー」は、マーカス・ロバーツが大きな影響を受けてきたガーシュウィンの名曲「ラプソディー・イン・ブルーとピアノ協奏曲ヘ長」にインスパイアされた作品です。

そして8月28日は、その「ラプソディー・イン・ディー」の世界初演の日であると同時に、ジャズとクラシック音楽の芸術的融合作品が完成した日でした。

2-5.教育プログラム

フェスティバル初日の8月9日には、あがたの森文化会館の講堂にて、「OMF室内楽勉強会〜金管アンサンブル〜発表会」が開催されました。オーディションで選抜された10名の若手金管奏者が、SKOメンバーの指導により学んだ室内楽アンサンブルの成果を発表しました。

8月31日は、松本市総合体育館にて「子どものための音楽会」として、長野県下の小学校6年生10,103人の児童を招待して、サイトウ・キネン・オーケストラとマーカス・ロバーツ・トリオが楽器紹介をはさみながら演奏しました。

そして9月7日、8日は、長野県内中学校1年生の約5,263人をまつもと市民芸術館・主ホールに招いて、「子どもと魔法」を演奏しました。このオペラは、2015年に小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXIIIで好評を得たオペラでした。

2-6.オープン イベント

セイジ・オザワ松本フェスティバルが盛り上がる理由の一つに、オープン・イベントの充実があります。
8月2日〜8月8日(発表会は 8月8日)、奥志賀高原ホテル「森の音楽堂」にて、「OMF室内楽勉強会~金管アンサンブル~」。

8月21日は、伊勢町Mウイング~本町~大名町~博物館前にて「吹奏パレード」、国宝松本城本丸庭園にて「合同演奏会」。

8月22日は、オーケストラ コンサートの模様を松本市内の特設会場(松本城公園、中町蔵シック館、上土ピカデリーホール)ほか、各都市で生中継する「スクリーンコンサート」。

8月6日は国宝松本城二の丸御殿跡にて、フェスティバルを歓迎するSK松本合唱団とSK松本ジュニア合唱団による演奏会「お城 de ハーモニー」。

上記以外にも、「ウェルカムストリート・ライブ」「フェスティバル展」「温ったか出前コンサート/特別出前コンサート」など盛りだくさん。セイジ・オザワ松本フェスティバルの開催期間中は、長野県のどこかで音楽イベントがあったといっても過言ではありませんでした。

3.日本一のCDコンサート実現か

こんな世界的なクラッシック・フェスティバルですが、OMFには私たちにとって非常に気になるプログラムが企画されていました。それがオープンイベントの一つ「CDコンサート」です。CDコンサートというからには、CDプレーヤーがあって、アンプがあって、スピーカーがあるはずです。

セイジ・オザワ松本フェスティバルは、日本一といっても過言ではないクラッシック音楽祭です。そこで企画されたCDコンサート。気になりませんか?

以下はOMF公式サイトの転載です。

日程:フェスティバル期間中
会場:キッセイ文化ホール 国際会議室
真空管アンプとシアタービックホーンで再現されるサイトウ・キネン・オーケストラの迫力サウンドをお楽しみください。
引用:http://www.ozawa-festival.com/programs/open-events.html#oe05

真空管アンプ?
セイジ・オザワ松本フェスティバルのCDコンサートは、真空管アンプを使うのですか?

しかし、お盆の真ん中、8月15日のことでした。公式サイトのOMFニュースにこんな記事が掲出されます。

CDコンサート 開催中止のお知らせ
フェスティバル期間中に開催を予定しておりましたCDコンサートは、諸事情により中止となりました。
開催を楽しみにして下さった皆様には心よりお詫び申し上げます。

本当に残念でした。
セイジ・オザワ松本フェスティバルでCDコンサートがあると知って、是非行ってみようと思っていただけに、本当に残念でした。来年は諸事情のハードルを乗り越えて、是非、日本一のCDコンサート実現へ向かって欲しいと思います。

4.まとめ

CDコンサートこそ中止にましたが、今年も大成功に終わったセイジ・オザワ松本フェスティバル。日本最高、世界屈指のオーケストラが観られるのは、国内では正直「セイジ・オザワ松本フェスティバル」だけでしょう。
日本のオーケストラ(こと管楽器)はあまり世界的な評価に恵まれているとは言えませんが、このサイトウキネンオーケストラだけは違います。唯一日本から、世界最高のクラシック評論雑誌「グラモフォン誌」において、世界のオーケストラTOP20に選出されており、その評判は傑出しています。
以前は東京などでコンサートも開催されていましたが、最近ではこのセイジ・オザワ松本フェスティバルか、あるいは海外公演でしか聴くことができません。

自分のオーディオで聴くのは当然として、是非小沢征爾が指揮する生の音を聴いてみたいものですね。そして、もし来年にCDコンサートが開催されたなら、是非皆さんとお行き会いしたいものです。

オーディオ機器は大きくて重い上、とても衝撃に弱い精密機械です。そのため、引越しや売却の際の運送時には非常に丁寧な梱包が求められます。

もちろん、購入時のケースなどが保管してあれば問題ありません。その梱包材一式を使って、購入時と同じように梱包しましょう。

しかし、元箱などが手元に何も残ってない場合はどうしましょう。

インターネット上では様々な意見が飛び交っています。中には非常に高価な梱包材の購入を勧めているところもあります。が、本当に高価な梱包材は必要なのでしょうか。あるいは、専門的な梱包材がなければ、オーディオは安全に梱包することができないのでしょうか。

結論を申し上げます。
動画にあるとおり、特殊な道具は不要です。高価な梱包材も必要ありません。

ちょっとの知識と、ちょっとのアイデア。
それと、見慣れた道具をいくつか。

これだけで「安心・安全」な梱包が「安価」にできます。

そこで今回は、オーディオの売却時や引越し時に使える「梱包の方法」について、まずはスピーカーを題材に解説します。

正しく梱包されていないスピーカーは、運送中にカドが欠けたり、デリケートなスピーカー面に傷がついたり、場合によっては何かしらの原因で二度と美しい音を奏でなくなることもあります。

是非この記事で正しい梱包法を身につけてください。

1.準備する

準備する物は、「ダンボール」「エアキャップ」「テープ」「カッター」「はさみ」です。
まずはそれぞれの注意点について。

1-1.ダンボール

ダンボールの主な用途は3つです。
①底面に当てる
②スピーカー面に当てる
③全体をすっぽり収める
そのため、準備すべき段ボールは、上記3つの目的が達成できる段ボールとなります。

①で必要となる段ボールは、底面より大きい段ボールです。

※動画1:37~

②で必要となる段ボールは、スピーカー面よりも大きい段ボールです。

※動画2:14~

③で必要となる段ボールは、理想は一つの段ボールでスピーカーをすっぽり収めることですが、なかなかそのような巨大な段ボールはありません。実際的には2つ以上の段ボールを使って(上からと下からで被せる方法)、スピーカー全体を収めることになります。

※動画2:23~

ダンボールは、お近くのスーパーやホームセンターにて「無料」で入手することが可能です。お菓子が入っていた段ボール、赤ちゃんのオムツが入っていた段ボール、何でも結構です。
あらかじめスピーカーの幅・奥行・高さを計った上で、ちょうど良い大きさのダンボールを、必要な枚数だけ手に入れておきましょう。

1-2.気泡緩衝剤

気泡緩衝剤は商標が一般名称のように使われており、人によって呼び方が様々です。
「エアーキャップ」(酒井化学工業株式会社の登録商標)、「ミナパック」(酒井化学工業株式会社の登録商標)、「キャプロン」(株式会社ジェイエスピーの登録商標)などが代表的ですが、最も浸透しているのは川上産業株式会社の登録商標(登録番号 第2622392号)「プチプチ」でしょうか。そこでこの記事では、便宜上、気泡緩衝剤を「プチプチ」と表記します。

スピーカーの梱包では、プチプチは幅広のものほど使い勝手がよくなりますが、その分価格が上がってしまいます。しかし、とはいえ幅が狭すぎると梱包が面倒になります。大きすぎず、小さすぎず。ちょうど良い規格のプチプチを購入しましょう。

プチプチの幅は、スピーカー面より少し大きいものが最適です。

※動画1:13~

長さは、20m巻きや42m巻きの商品が多く流通しているようですが、そこまで長いものは不要です。「使いきりタイプ」などを購入しましょう。ただし、インターネット上では格安でプチプチを提供しているサイトもあります。

2,000円を予算とするのも一つの考え方かもしれません。

1-3.カッター&はさみ

カッターとはさみは、両方あった方が作業は楽になります。

カッターはダンボールの切断に。
はさみはプチプチの切断に。

用途によって道具を使い分けることで、仕上がりも変わってきます。ぜひともカッターとはさみの両方をご用意ください。

1-4.テープ

一般的にガムテープには3種類あります。クラフト(紙)テープ、布テープ、ビニール(OPP)テープです。
これら3種類の相違点は、素材です。クラフトテープは紙から、布テープは布から、ビニールテープはビニールからできています。基本的には名前の通りです。

この3種類の中で、お勧めのテープはOPPテープです。理由は2つあります。
①この3種類の中では粘着力が最も強い
※OPPテープは伸縮性もあり、引っ張りながら貼るといっそう粘着度は強まります。
②水濡れに強い

一方で、その強い粘着度ゆえ開梱に手間がかかったり、手で切れないというデメリットはあります。しかし運送時の梱包に求められるのは、何を差し置いても「安全性」です。事故の可能性を少しでも下げるためにも、できる限りOPPテープを使いましょう。

【補足】
クラフトテープの使用だけは避けましょう。
クラフトテープは表面に接着剤が付きづらい加工が施されており、テープの二重貼りができません。(クラフトテープの上にテープを貼っても、すぐにはがれてしまいます)
そのため、梱包にはクラフトテープの使用は避け、なるべくOPPテープを使いましょう。

2.切る

2-1.プチプチを切る(スピーカー上面)

※動画1:17~

スピーカー上面に当てるプチプチを用意します。
カドを保護する目的もあります。少し大きめに切っておくことがポイントです。

2-2.プチプチを切る(側面&底面)

※動画1:23~

プチプチを敷いて、その上にスピーカーを寝かせます。そして、スピーカーの上端とプチプチの端を合わせます。
(下にはみ出たプチプチで底面をカバーします)

※動画1:25~

もしここでプチプチが底面をカバーできないようなら、上面と同じサイズを切り出しておく必要があります。

なお、プチプチは斜めに切ってしまうとテープでの接着が面倒になります。なるべく真っ直ぐ切り出しましょう。

3.包む

3-1.プチプチで側面&底面を包む

※動画1:35~

プチプチでスピーカーを包む際は、プチプチの端とスピーカーの端がきれいに合わさるようにし、斜めにならないように気をつけましょう。斜めになると、底面がうまくカバーできません。

そしてプチプチでスピーカー側面をくるんだら、すぐにテープで接着です。
側面は30cm程度の間隔で十分ですが、底面は少し念入りに留めておくことをお勧めします。

3-2.プチプチで上面を包む

※動画1:47~

プチプチをスピーカー上面に当て、余った分は側面を巻き込みテープで固定していきます。

3-3.底面にダンボールを当てる

※動画2:04~

この作業の目的はスピーカー底面のカドを保護することです。

まず、スピーカー底面の各辺より15cmほど大きくダンボールを切り出し、そこにスピーカーを乗せます。それから、ダンボールに切り込みを入れて、丁寧にカドをくるみます(動画でご紹介しているように、段ボールを折って、それから段ボールを立てて、カドを包むようにくるみます)。そして、しっかりとテープで接着して四つ角を保護します。

3-4.スピーカー面にダンボールを当てる

※動画2:14~

この作業の目的は、大切なスピーカー面を特に保護することです。
スピーカー面とほぼ同じ大きさにダンボールを切り出し、スピーカー面に当ててテープで固定します。

3-5.ダンボールを上からかぶせる

※動画2:22~

まずは段ボールを組み立てます。
すでに段ボールが組み立てられている場合は、クラフトテープで接着されていないことを確認してください。もしクラフトテープで接着されている場合は、一旦崩してテープを全て剥がしましょう。クラフトテープの表面は、接着剤が付きづらい加工が施されているからです。

段ボールの組み立てが完了したら、 それをスピーカーの上からかぶせます。その際、スピーカーとの隙間が少ない方が事故は起こりづらくなります。ですから、余分なダンボールを切り取って、ぴったりとテープで固定していきましょう。

この時、どこがスピーカー面かわかるようにしておけば、最後の手順で困惑せずに済みます。何か目印をつけておきましょう。

3-6.ひっくり返して底面にかぶせる

※動画2:32~

3-5の手順と同様、スピーカーをひっくり返して、底面から段ボールを被せます。そして、スピーカーとの隙間が少なくなるように余分なダンボールを切り取って、テープで固定していきます。

それが完了したら、上からかぶせたダンボールと、下からかぶせたダンボールをテープで固定していきます。ここではしっかりとテープを使って接着させましょう。

4.書く

スピーカーの輸送で特に重要となるポイントは、スピーカー面を傷つけないことです。そのため、どこがスピーカー面を書いておけば、特にどの面を大切にすべきか一目瞭然となります。スピーカー面には必ず「スピーカー面」と書きましょう。

また、上面には「天地無用」と記載ししましょう。ほとんどのスピーカーは上下左右を問題にしませんが、運送会社の方や売却先の方は「どちらが上か」がわかると嬉しいものです。

5.まとめ

何事も、成功させるには準備が8割と言われています。スピーカーの梱包もまさにそうです。特に、ちょうど良い段ボールが準備できていれば、スピーカーの梱包は非常に容易になります。

とはいえ、記事ではある程度ぴったりサイズの段ボールを推奨しましたが、小さすぎなければ手間はさほど変わりません。スピーカーの大きさをしっかりメモして、それよりも大きな段ボールを入手すべく、近所のスーパーやホームセンターをいくつか回ってみましょう。

ちなみに、スピーカーの梱包に要する時間は一本あたり約20分程度が目安です。準備さえしっかり整っていれば、さほど難しい作業ではありません。ぜひ気軽に挑戦してみて下さい。

今回も前回に引き続き、栄光のV9戦士をオーディオに例えていきます。

オーダーは、

  • 1番 柴田勲
  • 2番 土井正三
  • 3番 王貞治
  • 4番 長嶋茂雄
  • 5番 末次 利光
  • 6番 高田繁
  • 7番 黒江透修
  • 8番 森祇晶
  • 9番 投手

前回は6番高田までだったので、今回は7番黒江から。

目次

  1. 7番 黒江透修をオーディオに例えたなら
  2. 8番 森祇晶をオーディオに例えたなら
  3. 9番 投手をオーディオに例えたなら
  4. まとめ

 

7番「黒江透修」をオーディオに例えたなら

黒江透修は鹿児島県姶良市出身の内野手です。現役時代の背番号は「5」。V9時代のセンターラインを土井と共にがっちり守り、土井-黒江の二遊間は、ベンチが作戦を預けるほどのハイレベル・ラインでした。身長165cmと小柄で小太りの体型だったことから、「豆タンク」の愛称で親しまれていました。
そんな黒江をオーディオに例えるなら、日立Lo-Dのカセットデッキ「D-4500」でしょう。

d-4500

画像引用:オーディオの足跡

まずは写真をご覧下さい。
まさに「タンク」という形容のごとき出立ちです。また、黒江は遠征中の宿舎では長嶋と同部屋で、夜中でも素振りに付き合わされました。その長嶋の素振りというのが、土井と黒江が畳を頭の上にのせ、長嶋が畳に沿って素振りをするというものだったのですが、長嶋はしばしばスイングに納得できず、二人は畳を担いだまま2時間、中腰のまま部屋の中を走り回ったようです。

もう一度写真をご覧下さい。

d-4500

このD-4500は、中腰のように見えませんか。そんなD-4500の最大の特徴は「R&Pコンビネーションヘッド」による3ヘッド方式です。録音・再生機能が独立しており、高感度・低歪率・広帯域周波数特性を実現。世界初の方式とあって、当時はとても話題となりました。また、L.P.D.S.(低位相歪システム)を採用。位相-周波数特性を「リニア」にすることで忠実な波形伝送を目指しました。そして、リニアを目指したのは黒江も同じでした。実は、黒江は子供の頃に右手に大怪我を負ったため、送球は酷いクセ球でした。それを当時の藤田ピッチングコーチとともに特訓し(座布団にボールをぶつけるという特訓)、クセのない送球(リニアのような直線的ボール)が可能になりました。世界初の3ヘッド搭載カセットデッキ「D-4500」。Lo-dはこれ以降、3ヘッドデッキにおいて画期的な技術を開発。そしてD-4500は国産カセットデッキの3ヘッド化への流れを決定づけるまさに名機でした。一方、黒江もまた、土井と共に栄光の巨人時代の守備の要となり、V9への流れを決定づけたまさに名選手でありました。

【主な仕様】

  • トラック形式:4トラック2チャンネル
  • ヘッド:録音・再生;R&Pコンビネーション(フェライト)ヘッド
  • 消去;ダブルギャップフェライトヘッド
  • 周波数特性:20Hz~20kHz(クローム)20Hz~18kHz(UD)20Hz~15kHz(ノーマル)
  • 歪率:1.7%(1kHz、0dB)
  • S/N:Dolby on;63dB、Dolby off;55dB
  • 入力感度/インピーダンス:Mic;0.3mV/10kΩ以上、Line;40mV/100kΩ以上、DIN in;35mV/100kΩ以上
  • 出力インピーダンス:Line out;2.5kΩ以下、DIN out;1kΩ以下、Headphone;8Ω
  • 電源電圧:AC100V(50Hz/60Hz)
  • 消費電力:40W
  • 外形寸法:W441 x H222 x D312mm
  • 重量:12kg

 

8番「森祇晶」をオーディオに例えたなら

森祇晶は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身の捕手です。背番号は「27」。「V9の頭脳」との異名を取る一方、キャッチングの技術も非常に高い捕手でした(名捕手・野村克也が通算206個のパスボールに対し、森は42個のみ)。また、グランド外での情報収集にも熱心で、日本シリーズ対策としてパ・リーグで絶対的な強さを誇っていた阪急の話を聞くために、野村克也(当時のパ・リーグ南海の正捕手)の自宅に出向いたエピソードは有名です。

また、他の名捕手の例に漏れず、森も現役時代は「ささやき戦術」の名人でした。そんな森をオーディオに例えるなら、チューナー以外にありません。それも「KENWOOD L-02T」。これに決まりです。

 

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画像引用:オーディオの足跡

1970~80年代に流行したエアチェック。あれはまさに、深夜ラジオのささやきに耳を傾けることでした。そして「KENWOOD L-02T」は、収集された情報を完璧にささやいた名機でした。さらに、森は「ジャイアンツ史上最強の名キャッチャー」と評され、今なお森を超える捕手は現れていないと言われていますが、このKENWOOD L-02Tもまた、今なおこれを超える性能のFMチューナーはないと言われている機器です。発売当時の価格は30万円。しかし、その弩級の金額以上に、超弩級の性能に世間は驚いたものでした。

「周波数直線高精度7連バリコン」を採用し、サンプリングホールドMPXをベースに、位相特性の改善や歪の低減を実現した「ノンステップ・サンプリングホールドMPX」を搭載。さらに、長年チューナーの課題とされていた受信特性とオーディオ特性の両立を実現した「ノンスペクトラムIFシステム」を備えています。チューナーは、高選択度と音質の両立が求められる機器です。しかし、周波数変調であるFM信号は、オーディオ信号の強弱や周波数成分により常に帯域幅の変化するスペクトルとして情報を伝えており、このスペクトルがIF(中間周波数:Intermediate Frequency)バンドパスフィルターを通過する際、音楽情報を大きく損失します。一方、IFフィルターを緩やかな特性にしてスペクトルを通過させれば、情報の損失は免れます。が、今度は妨害波の排除機能低下を招いてしまい、音質を損ないます。そこで開発されたのが、この「ノンスペクトラムIFシステム」でした。いったんIF回路に入るFM信号からFMスペクトルを取り除き,IFフィルターにより妨害信号を除去した後、元のFM信号に戻して検波。低歪みと妨害排除能力の両立を実現しました。グランドの内外でアンテナを張り巡らせて情報を収集し、ささやいた森。このKENWOOD L-02Tもまた、情報を損なわず、確かな音質で夜のエアチェック・シーンではささやきました。

【主な仕様】

  • 型式:FMステレオチューナー
  • 受信周波数範囲:76MHz~90MHz
  • アンテナインピーダンス :75Ω不平衡
  • 感度(75Ω):normal;10.7dBf(新IHF)/0.95μV(IHF)、direct;25.2dBf(新IHF)/5.0μV(IHF)
  • SN比50dB感度:normal mono;15.8dBf(新IHF)/1.7μV(IHF)、normal stereo;37.2dBf(新IHF)/20μV(IHF)
  • direct mono;31.2dBF(新IHF)/10μV(IHF)
  • stereo stereo;51.6dBf(新IHF)/105μV(IHF)
  • 高調波歪率(ANT in→Σ out、85dBf入力):
  • wide(100Hz); 0.004%(mono) 0.015%(stereo)
  • wide(1kHz); 0.004% (mono) 0.01%(stereo)
  • wide(6kHz); 0.015% (mono) 0.03%(stereo)
  • wide(15kHz); 0.01%(mono) 0.1%(stereo)
  • wide(50Hz~10kHz); 0.015%(mono) 0.04%(stereo)
  • narrow (100Hz);0.005%(mono) 0.08%(stereo)
  • narrow (1kHz);0.02%(mono) 0.08%(stereo)
  • narrow (15kHz);0.05%(mono) 0.05%(stereo)
  • narrow (50Hz~10kHz);0.2%(mono) 0.2%(stereo)
  • SN比(ANT in→Σ out、100%変調、85dBf入力):
  • mono;98dB stereo;88dB
  • 周波数特性(ANT in→Σ out):15Hz~15kHz +0.2 -0.5dB
  • イメージ妨害比(84MHz normal):120dB
  • IF妨害比(84MHz normal):120dB
  • 電源電圧:AC100V(50Hz/60Hz)
  • 定格消費電力:28W
  • 最大外形寸法:W480 x H147.5 x D423mm
  • 重量:12.4kg

 

9番 投手をオーディオに例えたなら

V9時代の投手といえば、やはり「堀内恒夫」でしょうか。堀内恒夫は、山梨県甲府市出身の投手です。背番号は「18」(入団時は「21」)。V9時代のエースとして活躍し、通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献。1972年には26勝を挙げ、球団通算3000勝目の勝利投手でもあります。一方、1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成した上で、史上唯一の「投手による3打席連続本塁打」を達成しています。

そんなV9時代のエース・堀内をオーディオに例えるなら、音楽業界のエース的商品「CD」を奏でるCDプレーヤーでしょう。それも、ソニーの「CDP-101」が適任ではないでしょうか。

 

cdp-101

画像引用:オーディオの足跡

 

CDP-101は、世界初のCDプレーヤーです。このプレーヤーから日本のCD時代は始まりました。そして、堀内は日本で初めてのドラフト会議で、1位指名選手として巨人に入団した投手です。この天才的投手の入団により、巨人のV9時代は始まりました。「世界の福本」の異名を持つ日本の盗塁王・福本はこう残しています。「あんなクイックは初めて見た。パ・リーグにあんなことができるピッチャーはいない」一方、CDP-101に初めて触れた多くの人はこう思ったものでした。

「トレイに入れて再生ボタンを押すだけ。こんなクイック再生ができるプレーヤーは、今までなかった」

CDプレーヤーも堀内も、当時はニュータイプの存在として、世間を大きく賑わせたものでした。

【主な仕様】

  • 型式:コンパクト・ディスク・デジタルオーディオシステム
  • 読取り方式:非接触光学読取り(半導体レーザー使用)
  • レーザー:GaAlAsダブルヘテロダイオード
  • 回転数:約500〜200rpm(CLV)
  • 演奏速度:1.2m/s〜1.4m/s(一定)
  • 周波数特性:5Hz〜20kHz ±0.5dB
  • 高調波歪率:0.004%以下(1kHz)
  • 電源:AC100V(50Hz/60Hz)
  • 消費電力:23W
  • 外形寸法:W350 x H105 x D325mm
  • 重量:7.6kg

 

まとめ

7番黒江は、Lo-Dの「D-4500」。見た目は豆タンク。中腰。しかしその実態は世界初の3ヘッドを搭載したカセットデッキ。

8番森は、KENWOODのチューナー「L-02T」。受信特性とオーディオ特性の両立を実現した、世界最高峰のチューナー。

9番投手の堀内は、ソニーのCDプレーヤー「CDP-101」。この名機から、CD時代は始まりました。

こうして振り返ってみると、本当にあの頃のジャイアンツは強く、当時のオーディオは多くの人にロマンを与えました。日本の古き良き時代、というところでしょう。ところで、当時のV9時代の9選手を取りまとめていたのが、「ドン川上」こと川上哲治です。川上はアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』を実践し、「V9」を達成して「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれた伝説的存在です。

そうですね。

この「V9戦士をオーディオに例えたなら」シリーズは、やはり彼で締めくくるべきでしょう。そんなわけで番外編。最後は、監督をオーディオに例えてみました。

 

番外編

監督 川上哲治をオーディオに例えたなら

川上哲治は、熊本県球磨郡大村(現・人吉市)出身。「打撃の神様」と称された現役時代を経て、V9時代の指揮をとった名監督です。そんな伝説的名監督をオーディオに例えるなら、やはりオーディオ機器を支えるオーディオラックでしょう。それも、伝説とまで言われている「ゾーセカス」をおいて他にはないでしょう。

ゾーセカス(zoethecus)「z.3/R with Z.SALB」は、既に販売終了となっている伝説的ラックです。

9人の選手をまとめていた村上監督さながらに、異なる素材を手作業で9層に重ね合わせたゾーセカスの棚板。最外層をソリッドアルミプレート張りにすることで、物理的共振を抑制。同時に、コンポーネントからの不要輻射に対しても優れたシールド効果を発揮します。周囲の支柱はメープル材。この素材は内部密度が不均一なため、共振を効果的に排除。また、脚部には砂を補填したアルミスパイク構造を採用しており、床からの振動を防ぐ理想的なメカニカルアースを形成しています。個性溢れるV9戦士を一つにまとめあげ、総合力を高めた村上監督。ゾーセカスもまた、オーディオシステムのトータルクオリティを劇的に向上。両者とも、今までにない格別な実績をもたらした存在でした。

【主な仕様】

  • 外寸:W648 x H635 x D521 mm
  • 定価:384,000円

では、そろそろお別れです。あなたのオーディオライフが、栄光のオーディオライフになることを祈りつつ。またいつかお会いしましょう。

今回も前回に引き続き、栄光のV9戦士をオーディオに例えていきます。

オーダーは、

  • 1番 柴田勲
  • 2番 土井正三
  • 3番 王貞治
  • 4番 長嶋茂雄
  • 5番 末次 利光
  • 6番 高田繁
  • 7番 黒江透修
  • 8番 森祇晶
  • 9番 投手

前回は3番王までだったので、今回は4番長嶋から。

目次

4番「長嶋茂雄」をオーディオに例えたなら

長嶋茂雄は千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の内野手です。現役時代の背番号は「3」。「日本で最も有名なプロ野球選手は?」と質問されれば、「ミスタープロ野球」「チョーさん」など、おそらく一番多くの人がその名を挙げるだろうスーパースターです。
しばしば「記録より記憶に残る選手」と称されますが、「首位打者6回」「本塁打王2回」「打点王5回」「最多安打10回」と、素晴しい記録も残している選手です。
人気・実力も兼ね揃えていた長嶋茂雄。彼が引退時に発した「巨人軍は永久に不滅です」の言葉は本当に有名です。

そんな長嶋をオーディオに例えるなら、やはりオーディオの華・スピーカーでしょう。それも、YAMAHAのNS-1000Mが適任ではないでしょうか。

ns-1000m
画像引用:オーディオの足跡

NS-1000Mは、オーディオでは珍しく愛称が浸透している機種です。「1000モニ」という響きに懐かしさを覚える人も多いことでしょう。
1000モニは1974年の発売以来23年間に渡り製造され、20万台以上売れた国産の名機です。本当に売れました。ひょっとしたら日本で最も売れたオーディオかもしれません。一方、長嶋茂雄も同じです。「ミスター」などの愛称を持ち、日本で最も名の売れたプロ野球選手です。

また、長嶋は1982年にバチカン市国にてローマ法王に謁見したりと、海外での重要人物にお呼ばれしています。そしてNS-1000Mも同様に、海外での主要なシーンで登用されています。NS-1000Mは、スウェーデン国営放送やフィンランド国営放送でモニタースピーカーとして使用された実績を持ちます。

ピアノの音を美しく再現することも特徴です。YAMAHAはピアノを製造していることもあるのでしょうが、このNS-1000Mは、特にピアノの音とは愛称抜群です。そして、ここで少し思い出して欲しいのですが、王貞治の趣味はピアノです。そうですね。「アベックホームラン」という言葉がある通り、王と長嶋の愛称は最高です。

ところで、しばしば「長嶋はゴロが苦手」という印象を抱いている人がいます。ゴロとは地面を転がる”低い”打球ですが、NS-1000Mもまた、”低い”音が苦手という印象を抱いている人が多いようです。
ただ、それはあくまでイメージです。長嶋にはイージーゴロを派手にエラーするイメージが定着していますが、実は数値上では守備能力が非常に高い選手です。通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象)に位置し、1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位です。そして、NS-1000Mも愛称のいいアンプを選んだ上でセッティングをしっかりやれば(このセッティングが結構シビアなのですが)、高音同様、クリアで輪郭のくっきりした低音を鳴らします。両者とも、決して「低い」所が苦手なわけではありません。

「巨人軍は永久に不滅です」との名言を残した長嶋茂雄。
このNS-1000Mもまた、記憶・記録に残る名機です。そして、私たちオーディオファンにとっても「永久に不滅」と言える機種ではないでしょうか。

【主な仕様】

  • 方式 3ウェイ・3スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型
  • 使用ユニット 低域用:30cmコーン型(JA-3058A)
  • 中域用:8.8cmドーム型(JA-0801)
  • 高域用:3.0cmドーム型(JA-0513)
  • 再生周波数帯域 40Hz~20kHz
  • クロスオーバー周波数 500Hz、6kHz、12dB/oct
  • 最低共振周波数 40Hz
  • インピーダンス 8Ω
  • 出力音圧レベル 90dB/W/m
  • 定格入力(JIS連続) 50W
  • 最大許容入力 100W
  • レベルコントローラー 中・高音、連続可変型
  • 外形寸法 幅375×高さ675×奥行326mm
  • 重量 31kg

5番「末次利光」をオーディオに例えたなら

末次利光は熊本県人吉市出身の外野手。旧名は民夫。現役時代の背番号は「38」。渋い活躍が特徴の、バランス型の選手です。表情は少なく性格は無骨。華やかなスターが揃っていた当時の巨人軍の中では、極めて異色で目立たない存在でした。
そんな末次の特徴を端的に表しているのが、1976年6月8日の阪神タイガース戦です。山本和行から劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打を放つものの、翌日の読売新聞朝刊スポーツ欄では、末次でなく満面の笑みで末次を出迎える長嶋監督の写真が掲載されました。
(しかし、『巨人軍5000勝の記憶』 など、球団の歴史を記す書籍やプロ野球通の間では、絶大な人気を誇った選手でした。野球好きの皇太子徳仁親王が、少年時代に末次を応援していたというのは有名な噂です。)

そんな末次をオーディオに例えるなら、ROTELのプリメインアンプ「RA-820BX」でしょう。
ROTEL は日本のオーディオメーカーですが、デザインは他の日本メーカーとは一線を画しており、無骨。本当に、日本では目立たない存在です。

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画像引用:AudioAsylumTrader

また、ROTELは「最高の信頼性とサウンド追求のための厳選されたパーツ」「対称トレース設計によるストレートサーキット思想」「徹底したヒアリング主義」を重視するバランスド・デザイン・コンセプトを掲げ、「見た目の華やかさや一部のパーツや回路の優秀さをアピールするのではなく、全体のバランスの良さによる実際の音を重視する」という方向性を明確に打ち出し、それを実践しているメーカーです。いかがでしょう。バランス型の選手として、無骨で目立たない存在でも、渋くいい働きをしていた末松と重なりませんか。

ところで、ROTELのRA-820BXは、物理学・電子工学・機械工学を組み合わせて実際に「音を聴く」ことに重点を置いて開発が進められた商品です。そして、その姿勢が英国をはじめとするヨーロッパで高い評価を受け、1985年には英国雑誌“What HiFi”で大きく取り上げられます。そうです。このプリメインアンプRA-820BXが
礎となって、今のROTELを築くのです。

一方、末次はコーチとして、緒方耕一・中畑清・篠塚利夫・松本匡史らを育て、スカウトとして阿部慎之助・木佐貫洋・亀井義行の獲得に貢献します。もう皆さんおわかりでしょう。末次こそ、今の強い巨人を築き上げた立役者なのです。

ROTELの最小モデルであるRA820BXは、輸出専用機とあって日本では本当に目立たない存在です。しかし、公称定格出力は25w+25wですが、出力段のタランジスタには実に10倍以上の、280wの入力を許容するものを使用しています。無骨で目立たなくても、確かな能力で渋い働きをするRA820BXこそ、V9戦士の末次と言えるのではないでしょうか。

【主な仕様】

  • 出力:25W+25W(8Ω)
  • 入力感度:2.5mV(MM)、150mV(線)
  • インピーダンス:16Ω-4Ω
  • 規格:430 x 66 x 271mm
  • 質量:5.5kg

6番「高田繁」をオーディオに例えたなら

高田繁は大阪府大阪市住吉区出身の野手。現役時代の背番号は「8」。「プロ野球史上最高の左翼手」との呼び声も高く、特にクッションボールの処理には長けていて「壁際の魔術師」との異名を持つ程でした。
しかし1975年オフ、張本勲が日本ハムファイターズから巨人へ移籍。それに伴い、高田は三塁手へコンバートされます。それでも、内野手にコンバートされた1年目にはダイヤモンドグラブ賞を獲得。 史上初の、外野手・内野手両方での受賞を果たします。
トレードマークは青。俊足・強肩・強打と、走攻守の三拍子揃った名選手でした。

そんな高田をオーディオに例えるなら、マッキントッシュの「MT10」でしょう。

MT10は、電源部は不要な振動やノイズの発生を防ぐべく厳格に管理されており、駆動部には高性能スイス製ブラシレスDCモーターを採用。また、極めて高い精度を実現するため、ターンテーブルの回転あたり1,595ものストロボマークを参照する電子スピードコントロールとなっています。そして、フィニッシュは鏡面仕上げにより高級感を演出。「安定感」「高精度」「高級感」の三拍子揃った名プレーヤーです。

一方、高田も先述の通り、「俊足」「強肩」「強打」と、走攻守の三拍子揃った名プレーヤーでした。

また、高田は1975年に外野手から内野手へコンバートされています。時折、日本プロ野球で初めて外野手か一塁手を除く内野手にコンバートされた選手と言われますが、それは誤りです。山完二(国鉄)、苑田聡彦(広島)、上垣内誠(広島)等の前例があります。ただ、珍しい逆転現象であったことは間違いありません。

実は、マッキントッシュにも同じような珍しい逆転現象が起きています。
アップル社と言えば、独自性の高い技術を持つ企業を次々と買収し、全てを自社のものへと吸収する体質を持つ企業です。一言で言えば、「自分たちだけのモノ」とすることで成長している企業です。
しかし、そんなアップルも「自分たちだけのモノ」にできていないものがあります。それが「マッキントッシュ」の名前です。アップル社のマッキントッシュはスペルこそ異なるものの(Apple社はMacIntosh)、老舗の「マッキントッシュ」にその使用許可を得て使っています。現代的な視点で見れば、これは珍しい逆転現象です。

しかし、何よりの共通点は「青色」です。

近年のプロ野球界では、カラフルなグローブを使う選手も多く見られます。しかし、当時は茶色のグラブ以外を使う選手は珍しく、そんな中、高田は青いグラブを愛用。アドバイザリースタッフ契約しているミズノ(当時は美津濃スポーツ)では“高田モデル”という青のグラブが大変人気を博したものでした。さらに、高田は手袋も青だったことから、同時期に活躍したV9戦士「赤い手袋の柴田勲」と対称的な人気がありました。

一方、マッキントッシュのMT10は、電源を入れると上品なグリーンの輝きを放つターンテーブルイルミネーション機能が作動し、幻想的な表情を演出。そして何より、マッキントッシュの代名詞「ブルーアイズメーター」が青く光ります……ちょうど、高田の青いグラブのように。

マッキントッシュと言えばアンプのイメージがありますが、このMT10は金額も100万円を優に超えることもあって、本当に素晴しい名機です。是非、オーディオの柴田勲「 樽屋レコードカートリッジ01M 」とセットで、絶品レコードを味わって欲しいと思います。

【主な仕様】

  • 駆動方式 ベルトドライブ式
  • DCモーター PLL方式
  • トーンアーム ストレートタイプ
  • ターンテーブル  高純度アクリル材
  • 適合カートリッジ自重 6~14g
  • 回転数 33-1/3、45、78回転
  • 消費電力 250mA
  • 最大外形寸法 W445×H205×D485mm
  • 質量 19.0kg
  • カートリッジ付属(MCカートリッジMCC10、推奨針圧2.4g、出力電圧0.5mV)

まとめ

4番長嶋は、オーディオの華・スピーカーよりYAMAHAの「NS-1000M」。
多くのユーザーの記憶に残り、ヤマハのオーディオ部門売上記録を打ち立てた名機です。

5番末次は、ROTELのプリメインアンプ「RA-820BX」。
無骨で地味ながらも、渋い働きをします。

6番高田は、マッキントッシュの「MT10」。
青い手袋さながらのブルーアイズメーターがたまりません。

というわけで、今回は中軸打線を例えてみました。
次回は「7番黒江」からです。楽しみにお待ちいただければ光栄です。
では、また近々お目にかかります。

あなたのオーディオライフが、「今日じ〜ん」と来ることを祈っています。