音楽で紐解く小澤征爾(中編)

前回は小澤征爾が海外で活躍し始めることまでをまとめましたが、今回はその続きを。

 

  1. 小澤征爾が日本を捨てた理由
    1-1.N響事件とは
    1-2.N響側の意見
    1-3.セイジの味方
    1-4.その後
  2. 小澤征爾の受賞歴
    2-1.躍進続く20世紀
    2-2.受賞ラッシュの21世紀
  3. まとめ

1.小澤征爾が日本を捨てた理由

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小澤征爾の活躍の場がほとんど海外であるのには理由があります。実は、彼はこう言っていた頃があります。
もう、日本になんか帰らない
そうです。小澤征爾は日本を見限ったことがあるのです。それは1962年の、N響事件がきっかけでした。

 

1-1.N響事件とは

1961年7月の杉並公会堂での放送録音が、小澤征爾とNHK交響楽団(N響)の初顔合わせでした。それを経て、小澤征爾は翌1962年6月から半年間、「客演指揮者」として契約します。当初は6月の定期を含めた夏期のみの契約予定でしたが、秋の定期の予定指揮者ラファエル・クーベリックが出演をキャンセル。そのため12月まで契約期間が延長されました。

小澤征爾とN響は、7月にはオリヴィエ・メシアン作曲「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演を成功に導き、両者はとても相性が良い思われていました。が、10月の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への2週間の演奏旅行にて、小澤征爾とN響との間に感情的な軋轢が生じます

そして、その年の11月です。第434回定期公演が新聞に酷評された直後、N響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には、一切協力しない」と表明します。小澤征爾はNHKと何度か折衝を重ねますが、なかなか折り合いがつきません。しまいには、N響の理事は小澤征爾を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明まで送りつけます。一方、小澤征爾も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴えます。

その結果、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表されるわけですが、それでもその当日、小澤征爾は東京文化会館大ホールの舞台で独り、楽員の到着を待ちます。が、誰も来ません。客も来ません。そして、そのボイコットの様子を、各新聞社は小澤征爾がたった独りで指揮台に経つ写真とともに、とても大きく掲載します。

これが「N響事件」ですが、この騒ぎは政財界を巻き込む社会問題へと発展します。石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、谷川俊太郎、三島由紀夫などが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出。さらに芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が、事件の真相調査にまで乗り出します

 

1-2.N響側の意見

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フィリピン・マニラ公演でのことです。小澤征爾はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」の演奏時に、現地のピアニストが弾くカデンツァの途中、うっかり指揮棒を上げてしまいます。もちろん、それでオーケストラは楽器を構えます。しかし、カデンツァはまだ続いているわけですから、誰の目にも小澤征爾のミスであることは明らかでした。

このミスにより演奏は混乱。コンサートマスターの海野義雄らは大恥をかきます。そして、N響側はそのミスの原因を「小澤征爾が朝六時半まで飲み明かし、マニラ公演に臨んだからだ」と話します

しかしそれに対し、小澤征爾は真っ向から反論。「副指揮者もいない上、当日は首の肉ばなれのために39度の熱があってドクターストップを受けていた。そのような環境・状態で棒を振ったためミスをした」と弁明します。それが一層N響幹部の怒りに油を注ぎます。

また、そもそも小澤征爾は「朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもその非礼を詫びないことが多かったそうです。それもまた、N響からの反感を買った一因だといわれています。

 

1-3.セイジの味方

とはいえ、小澤征爾にも強い味方が何人もいました。
浅利慶太、石原慎太郎、一柳慧、井上靖、大江健三郎、武満徹、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、そして三島由紀夫らは、年が明けた1月15日、日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開催。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。当日は超満員の日比谷公会堂で、小澤征爾と日本フィルハーモニー交響楽団はシューベルトの「交響曲第8番未完成」を熱演し、喝采を浴びます。

そしてその翌日の朝日新聞の朝刊には、三島由紀夫が「熱狂にこたえる道―小澤征爾の音楽をきいて」という一文を発表。N響事件は小澤征爾への青年蔑視だと問題提起します(当時の小澤征爾は27歳)。

1-4.その後

結論から言うと、小澤征爾とN響は、吉田秀和や中島健蔵らの斡旋により、形式上はすぐに和解します。しかし、小澤征爾とN響との共演がそれから32年後ということに鑑みれば、両者には相当な深い溝があったことは容易く想像できると思います。

 

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その32年ぶりの共演は、1995年。サントリーホールにて日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会でした。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、J.S.バッハの「G線上のアリア」(阪神・淡路大震災犠牲者追悼)など四曲を演奏。N響からの依頼を引き受けた理由として「当時の楽団員の多くがいなくなったから」との発言をしていますが、2005年にはマーカス・ロバーツを共演者に迎え、「子供たちのためのコンサート」を再びN響と共演しています。

N響事件の真相は、もちろん当事者にしかわかりません。
ただ、この事件に関して色々な人が様々な意見を述べています。その中でも、原田三朗は「小澤征爾の遅刻や勉強不足という、若さゆえの甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用」と発表。また、小澤征爾も数十年後に「あの頃は若造だった」と省みており、さらにあの事件後はいっそう勉強に取り組むようになったそうです

 

2.小澤征爾の受賞歴

2-1.躍進続く20世紀

1964年から68年まで、小澤征爾はトロント交響楽団の指揮者に就任します。

トロント交響楽団(Toronto Symphony Orchestra)は、カナダのトロントを本拠地とするオーケストラです。100以上の厳選されたプログラムを持ち、例年20万人以上の集客を誇ります。本拠地はロイトムソンホール。座席数は3540。この建物では毎年トロント国際映画祭の会場としても使用されている他、映画「X-メン」の撮影場所としても使用され、建築の観点からもとても魅力的な建造物です。

1966年には、小澤征爾はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初指揮を果たします。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、音楽の都ウィーンを代表する管弦楽団(オーケストラ)です。世界一のオーケストラと称する人もいるオケです。

1968年には、日本の音楽会に居場所がなかった小澤征爾に、フジテレビ社長の水野成夫が日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者のポストを用意します(日フィルは水野が作ったオーケストラで、親会社はフジテレビと文化放送)。

そして1970年のことです。小澤征爾はタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任します。このタングルウッド音楽祭は、35万人にのぼる観客数を動員する世界的に有名な音楽祭です。レジデンス・オーケストラはボストン交響楽団。過去にはセルゲイ・クーセヴィツキー、シャルル・ミュンシュ、レナード・バーンスタインなどが音楽監督を務めています。

また、同年にはサンフランシスコ交響楽団の音楽監督にも就任します。このオーケストラは1911年が最初の演奏会である老舗オケです。国内外で定期的に演奏旅行を行い、その演奏は多くのラジオ局によって毎週のように放送されています。

順風満帆に見えた小澤征爾ですが、1971年に試練が訪れます。日フィルの楽員たちが待遇の向上を求めて親会社と衝突し、12月にストライキを起こてしまいます。これは日本のオーケストラで初のストであり、結局これが引き金となって日フィルは解散となってしまいます

そして翌年の1972年、小澤征爾は日本芸術院賞を受賞するのですが、その授賞式で、天皇陛下に日フィルの処遇改善を求めて直訴してしまいます。これにより小澤征爾は新聞各社からバッシングされ、と同時に脅迫文が頻繁に届くようになり、家族を一時ホテル住まいさせます。

しかし、そんな環境を乗り越えて、1973年、小澤征爾38歳、とうとうアメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任します。と同時に、ボストンで活躍すればするほど活動の場は広がりをみせ、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへも出演します。

ちなみに、小澤征爾はボストン交響楽団の音楽監督を2002年まで務めたのですが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことです。

 

2-2.受賞ラッシュの21世紀

1998年、小澤征爾は長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。また、開会式では、小澤征爾はベートーベン第九を指揮し、開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結びました。

2002年には、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホール(黄金のホール)で行なわれるマチネ(昼公演)の演奏会で、ヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏されます。観客は正装し、雰囲気は信念に相応しくとても華やか。チケットも入手困難を極め、最もプレミアが付く演奏会としても有名です。

また、同年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督にも就任。ウィーン国立歌劇場はオーストリアのウィーンにある歌劇場で、専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団は、世界でも一、二の人気を争うオーケストラ「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」の母体です。

2008年には文化勲章を受章。2010年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈されます。
また、2012年には「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹との共著)で小林秀雄賞受賞。翌2013年には、故吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任しています。

そして2015年には、日本人として初めてケネディ・センター名誉賞を受賞すると、同年8月から、セイジ・オザワ松本フェスティバルを長野県松本市で開催。2016年には自らが指揮する歌劇「こどもと魔法」(ラヴェル作曲)を収めるアルバムがグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞します。

グラミー賞は米音楽界で最も権威ある賞と同時に、世界でも最も権威ある音楽賞の一つと見なされている賞です。そこにノミネートされるだけでも快挙と言えますが、小澤征爾は8度目のノミネートにして、サイトウ・キネン・オーケストラとの、しかも日本録音作品での受賞という快挙を遂げます。

2016年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団より名誉団員の称号が贈呈。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、1882年創立のドイツ名門のオーケストラで、オーストリアの「ウィーンフィルハーモニー管弦楽団」と、「アメリカのシカゴ交響楽団」とともに世界三大オーケストラと称されているオーケストラです。

そして今年の2016年10月には、東京都より名誉都民に顕彰されましたが、小澤征爾は世界の政府からもいくつか賞を授与しています。
2002年にはオーストリア政府より「勲一等十字勲章」を叙勲2008年には、フランス政府より「レジオンドヌール勲章」を叙勲されています。この「レジオンドヌール勲章」はフランスにおける最高勲章とされる非常に権威のあるものです。そしてこの勲章には5つの等級があり、小澤征爾は4番目の等級となる「オフィシエ(将校)」が与えられました。

3.まとめ

「音楽で紐解く小澤征爾(中編)」は、ここまで。
次回は最終回。知っているようで知らない小澤征爾の秘話。

というわけで、またお会いする日までお元気で。