音楽で紐解く小澤征爾(前編)

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オーディオ買取屋のある松本市は、「3ガク都」として知られています。学問・山岳・音楽。この3つの「ガク」がその言われです。

その中でも、特に音楽の「楽都」としては非常に高い知名度を誇ります。そうです。毎年夏になると、あの「セイジオザワフェスティバル」(旧サイトウキネンフェスティバル)が開催され、世界的に評価の高い日本人指揮者が松本にやってくるからです。

小澤征爾。

その名を聞けば、おそらく多くの方が「天才」というワードを思い浮かべることでしょう。確かに小澤征爾は天才です。いくつもの賞を受賞しており、先日(平成28年10月3日)も東京都の名誉都民に選ばれたばかりです。

が、そんな天才・小澤征爾にも、少なからず苦労はありました。本当は指揮者を志していなかったかもしれないし、NHKとも色々あったと言われています。そこで今回は、その輝かしい受賞歴とその裏側の秘話を三回に分けてご紹介いたします。

  1. 若かりし頃の小澤征爾
    1-1.ピアノとの出会い
    1-2.クラッシックとの出会い
    1-3.学生・小澤征爾
  2. 海を渡った小澤征爾
    2-1.始まり
    2-2.二人の先生
  3. アメリカでの活躍
    3-1.クーセヴィツキー賞
    3-2.ラヴィニア音楽祭
  4. まとめ

 

1.若かりし頃の小澤征爾

1-1.ピアノとの出会い

小澤征爾は1935年9月1日、満洲国奉天市(中国瀋陽市)で生まれます。そして6歳までその土地で暮らしますが、1941年3月、母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園します。

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1942年4月、小澤征爾は立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学し、あるとき長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けます。が、これが一家に大きな衝撃を与えます。家族全員、小澤征爾の音楽に対する才能を感じずにはいられなかったのです。そこですぐ、本格的なピアノのレッスンを始めさせるべく、父親が方々ツテを探し、横浜市白楽の親類から3千円でアップライトピアノを譲ってもらいます。が、当時の小澤家にとって3千円は大金でした。そこで小澤征爾の父親は、自分が愛用していたカメラ「ライカ」を売ってお金を何とか工面します。さらに、そのピアノの運送についても逸話があります。なんと父親と長兄と次兄の三人がピアノをリアカーに縛りつけ、3日かけて横浜から立川市の自宅まで運搬したそうなのです。

それが1945年のこと。小澤征爾は戦争の終わりの年に、初めて自宅でピアノを触るのです。そして翌年(小澤征爾小学5年生)、初めて人前でピアノを演奏。曲はベートベン「エリーゼのために」でした。

1-2.クラッシックとの出会い

ちょうどその頃、小澤征爾はクラッシック音楽にも触れるようになります。次兄の同級生に鈴木次郎というレコードマニアがいて、小澤征爾はその人の家で頻繁にレコードを聴きます。バリトンのゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルトの「冬の旅」、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」。多くの名曲をレコードで聴き、そうやって1曲1曲、うんと空気を吸い込むようにして、小澤征爾は音楽を体に染み込ませます。

1-3.学生・小澤征爾

1947年、小澤征爾の父親がミシンの会社を起こしたことをきっかけに、一家は神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)に転居します。そしてその翌年の1948年に、成城学園中学校に入学。ラグビー部に所属する一方、豊増昇にピアノを習います。当時は小田急小田原線で「新松田」から「成城学園前」まで、小澤征爾は片道2時間かけて通学していたそうです。

1951年には、小澤征爾は一旦は成城学園高校に進学しますが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学することとなります。(桐朋女子高校音楽科は、齋藤の肝煎りで設立された学科で、同門には秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子らがいます)

そして小澤征爾20歳の1955年には、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学し、1957年夏に同短期大学を卒業。その年には群馬交響楽団で振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当します。
さらに1957年12月、小澤征爾は日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル「子供と魔法」にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめます。

国内でここまで認められていた小澤征爾ですが、1958年のフランス政府給費留学生の試験では、残念ながら合格することはできませんでした。それでも、成城学園時代の同級生の父・水野成夫たちの援助で渡欧資金が調達できると(支援金は1200ドル。日本円で約45万円にものぼったと言われています)、1959年2月1日、スクーターとギターとともに貨物船で単身渡仏。
こうして海を渡った小澤征爾は、そこから様々な賞をいくつも受賞するのです。

 

2.海を渡った小澤征爾

2-1.始まり

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まずは渡欧した1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、つづいてカラヤン指揮者コンクールでも優勝します。

ブザンソン国際指揮者コンクールは1951年に創設され、例年9月中旬に2週間かけて開かれる世界的に有名なコンクールです(創設以降1992年までは毎年行われていましたが、その翌年からは隔年開催となりました)。指揮部門と作曲部門があり、日本ではそれぞれ独立させて「ブザンソン国際指揮者コンクール」、「ブザンソン国際作曲コンクール」などと表記します。予選の応募資格は「35歳までという年齢制限」があるのみで、書類選考はありません。ただ、「ブザンソン国際指揮者コンクール」について言えば、世界では「指揮者の登竜門」と認識されています。小澤征爾が受賞してからも、松尾葉子,佐渡裕,沼尻竜典,阪哲朗,下野竜也,山田和樹、垣内悠希が優勝し、誰もが世界的指揮者として活躍されています。

カラヤン指揮者コンクールは、その名の通り名指揮者と名高いカラヤンが弟子をとるために開いたコンクールです。小澤征爾が受けたときは50人ほどの応募者がいたのですが、小澤征爾は見事合格。晴れてカラヤンに師事することとなります。

が、こうして小澤征爾はカラヤンに弟子入りするわけですが、一方でバーンスタインにも師事します。これは本当にすごいことでした。というより、当時では考えられないことでした。

2-2.二人の先生

カラヤン(ヘルベルト・フォン・カラヤン:Herbert von Karajan、1908年4月5日-1989年7月16日)は、カール・ベーム(1894-1981)と並び称される20世紀を代表する指揮者です。1955年より三十年以上に渡りベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督なども兼任。また、残した録音の数は膨大で、映像として音楽を残すという新しい形態を定着させ、日本では「楽壇の帝王」と称される人物です。

ただ、カラヤンはバーンスタインとは非常に不仲でした。
バーンスタイン(レナード・バーンスタイン:Leonard Bernstein、1918年8月25日 – 1990年10月14日)は、史上最高のマーラー指揮者と言われている人物です。しかし、カラヤンはそんなバーンスタインの、ベルリンフィルへの客演を徹底的に妨害したと言われています。「ヨーロッパではカラヤン、アメリカではバーンスタイン」と言われている時代だったから、互いに強いライバル心を持っていたのでしょう。

とにかく、そんな不仲の二人が、同時に小澤征爾を可愛がったというから驚きです。

後に、小澤征爾はこう語っています。
「タングルウッドの直後にベルリンでカラヤン先生の弟子になるコンクールに通って、すぐ後にニューヨーク・フィルでバーンスタインの副指揮者にならないかという誘いがきました。恐る恐るカラヤン先生に、ニューヨーク・フィルの件を切り出すと、意外にも『セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい』と温かく送り出され……」

いずれにせよ、小澤征爾はこうして二人の天才指揮者(しかも不仲)に師事するのです。そしてこの二人との親交は生涯にわたり築かれたと言われています。

 

3.アメリカでの活躍

3-1.クーセヴィツキー賞

1960年、小澤征爾はアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞します。

バークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)は、世界的に有名な音楽祭です。セイジオザワフェスティバルの総鑑賞者が8万人強であるのに対し、タングルウッド音楽祭は期間中の観客数が35万人にのぼることを思えば、いかほどの音楽祭かは想像ができると思います。

そして1961年、ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任すると、同年にはニューヨークフィルの来日公演にも同行。さらに1964年には、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。小澤征爾は急遽、音楽監督として就任します。

3-2.ラヴィニア音楽祭

ラヴィニア音楽祭は、アメリカで最も歴史のある野外音楽祭です。「ラヴィニア」という愛称だけでシカゴの人々に通じるこのコンサート劇場は、100年以上も昔から世界中の人々の憩いの場所になっています。シカゴ交響楽団の夏季のベース・コンサートホールでありつつ、同時にジャズ、オペラ、ポップからバレーまでと、幅の広いコンサートの場であり、毎年100以上にのぼる多彩な演劇が企画されます。過去にはルイ・アームストロング(Louis Armstrong)やレナード・バーンステイン(Leonard Bernstein)、ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)やルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti)など、それぞれがそれぞれの分野で名声をあげた人々が絶えずこのステージで公演してきました。

小澤征爾がそんな歴史ある音楽祭の音楽監督を引き受けたのは、1964年の音楽祭の、まさに2日後にはシカゴで練習が始まるタイミングでした。依頼があった曲目は、グリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。さらに、あまりに急な話だったこともあって、手元に楽譜もない状態でした。そこで急遽バーンスタインのスタジオに駆け込み、不在のバーンスタインに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらうと、楽譜棚からスコアを借りてしゃかりきに勉強します。

そうして、何とか無事に音楽会を終えるわけですが(というより、大成功を収める訳ですが)、その後に開かれた盛大なパーティーで、ラヴィニア音楽祭の会長「アール・ラドキン」が小澤征爾にこう言います。「君にこの音楽祭をあげよう」。しかし、当時の小澤征爾はまったく外国語が理解できませんでした。そのため、マネージャーのロナルド・ウィルフォードは、小澤征爾が監督就任の記者発表間近になってもアメリカに戻ってこないため、不安になって電話をします。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるからすぐ戻って来い」。それで小澤征爾は驚きます。そうです。彼はそこで初めて、自分がラヴィニア音楽祭の音楽監督を務めることを認識するのです。そしてその年から1969年まで、小澤征爾はラヴィニアで毎夏指揮します。

ただ、一方では(主に地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」などからは)、小澤征爾は徹底的に批判されました。「ラドキンはなぜこんな奴を雇ったのか」「シカゴ交響楽団のような偉大なオーケストラが、なぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあったほどです。

これに音楽的抗議をしたのが、シカゴ交響楽団でした。

その夏の、最後の音楽会のことでした。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で小澤征爾は呼び戻されます。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器も、めちゃくちゃな音を鳴らし始めました。

「シャワー」でした。

小澤征爾はこう語っています。「シャワーを経験したのは生涯で後にも先にもその1度きり。そして、後々に分かったことなのだが、あのシャワーはシカゴ・トリビューンへの抗議を込めたものだったらしい」と。小澤征爾は、急な代役であったにもかかわらず音楽祭を成功させ、シカゴ交響楽団がめいっぱい味方してくれる程の信頼関係を築いていたのでした。

ちなみに、そのシカゴ交響楽団とはRCAレーベルやEMIレーベルに複数の録音を残します。これは非常に画期的なことでした。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮し、国際的な一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外マーケット向けに複数発売することなどまるで前例がなかったからです。

 

4.まとめ

「音楽で紐解く小澤征爾(前編)」は、ここまで。
次回はいよいよ実績も築き始め、「世界の小澤征爾」となる話です。

では、近々「音楽で紐解く小澤征爾(中編)」でお会いしましょう!