「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」は、オーディオ・ファンにも最高のイベントでした

2017年9月1日。オーディオ買取屋の本社がある長野県松本市にて、「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」が開催されました。

会場はアルモニービアン
国宝松本城へ向かうメインストリート「大名町通り」に面した歴史的建造物です。1937年(昭和12年)に旧第一勧業銀行ビルとして建築されますが、2003年8月、銀行統合のために同施設は閉鎖。取り壊しの話も浮上しますが、建物存続を願い2万人に達する署名活動や市民募金がおこなわれ、保存される運びとなります。今では「長野県史・ 建造物編」や「日本近代建築総覧」、「登録有形文化財」にも登録され、松本市の誇る歴史的建造物として名高い評価を得る建物です。

そんな由緒ある会場にて、13時開場、13時30分開演の予定だったわけですが、13時5分にはすでに100名ほどが会場入しており、たいへんな盛況ぶりが伺えるイベントでした。

参加者は「小澤征爾さんの誕生日を祝いたい」、あるいは「特別ゲストの東京フィルハーモニー交響楽団首席フルート奏者の神田勇哉さんの生演奏を聴きたい」など様々な想いを抱いていたと思いますが、この日は蓄音機の王様「クレデンザ」も登場。オーディオファンにも珠玉のひとときでした。

今回は、セイジオザワ松本フェスティバルが行われる松本ならではのイベント「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」の様子をお届けします。

音楽で紐解く小澤征爾(前編)

目次

    1. 勝手にお祝い。なぜ許される?
      1-1.「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」企画意図
      1-2.企画者
      1-3.勝手にお祝い。なぜ許される?
    2. プログラム
      2-1.クレデンザコンサート
      2-2.神田勇哉さんのフルート演奏
    3. 会場設備
      3-1.エレクトロボイス「SX-300」
      3-2.ボーズ「802」
    4. まとめ

1.勝手にお祝い。なぜ許される?

1-1.「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」企画意図

小沢征爾さんの誕生日は9月1日です。そして、2017年のこの日、82歳になられる小澤征爾さんを「勝手に」祝おうというのがこのイベントの意図です。

お祝いの趣向も非常に凝っています。
蓄音機の名機で音楽を聴き、特別ゲストによるフルート演奏で祝う。

当日は小澤征爾さんの姿は見られませんでしたが、きっとこの話は本人の耳にも入っていて、どこかでほっこり微笑んでいることでしょう。本当にとても素晴しい「勝手な」バースデーコンサートでした。

1-2.企画者

企画者は、岩原勝さんが会長を務める「松本SPレコード愛好会」。文字通りSPレコード愛好家の集まりです。

SPとはスタンダード・プレイの略で、古いレコードです。
現在、私たちが手にするレコードのほとんどは、SPレコードではなくLPレコード(Long Play record)です。SPレコードの最大の特徴は、録音可能時間が片面4分30秒程度と非常に短い点です。その上、シェラック盤と呼ばれる固い素材でできているため、割れやすくキズも付きやすいレコードでした。

しかし、そうした弱点を補ってもあり余る魅力がSPレコードにはあります。そして、SPレコードは1963年に生産が終了しているのですが、そういうこともあって、この「松本SPレコード愛好会」ではSPレコードを心から愛し、大切にしているそうです。

会員数は80名程度。そして、会員同士がお互いに珍しいレコードを持ち寄って、音楽鑑賞をするのが主な活動です。

1-3.勝手にお祝い。なぜ許される?

1-3-1.武井勇二

ところで、なぜ松本SPレコード愛好会は「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」を”勝手に”行うことができるのでしょう。小澤征爾さんとどのような関係があるのでしょう。

詳細はわかりませんが、「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」には武井勇二さんの姿がありました。武井勇二さんはSKF(サイトウ・キネン・フェスティバル松本)初代事務局長です。松本市と小澤征爾さんを結びつけ、サイトウ・キネン・フェスティバルの松本市開催を実現させた立役者です。

左が武井さん、右が岩原さん

【武井勇二さんプロフィール】
生まれは1938年、長野県下諏訪町。1956年に長野県諏訪清陵高校卒業後、現セイコーエプソン株式会社に入社。 1961年4月、諏訪交響楽団入団。1992年4月にサイトウ・キネン・フェスティバル松本実施本部事務局長、1993年5月、にはサイトウ・キネン ・フェスティバル松本総合コーディネーターに就任。2003年2月、セイコーエプソン株式会社を退社。

音楽で紐解く小澤征爾(中編)

1-3-2.武井勇二さんと小澤征爾さん

武井さんと小澤征爾さんは、1964年1月25日、諏訪で初めて出会います。武井さんがバイオリンを弾く諏訪交響楽団に、当時28歳の小澤征爾さんがやってきたのです。諏訪交響楽団はアマチュア・オーケストラでしたが、小澤征爾さんの中学時代の恩師・今井信雄さんが諏訪出身だったため、恩師の一声で駆けつけたそうです。

小澤征爾さんは到着するやいきなりベートーヴェンの「運命」の猛練習を開始。たった半日の練習でオケを練り上げ、演奏会まで持って行きました。そのエネルギッシュな姿に武井さんはいっぺんに小澤征爾さんに惚れ込み、この縁は絶対に絶やさないことを誓います。そしてそれ以来、小澤征爾さんが一時帰国するたび、塩羊羹を持って公演先の楽屋を訪ねるようになります。

それから時は経ち、1980年代のことです。小澤征爾さんは師匠の斎藤秀雄さんの門下生とSKO(サイトウ・キネン・オーケストラ)を結成。海外公演のスポンサーを探し始めます。そして、それを知った武井さんは勤務先(現エプソン)の社長に就任した元上司に掛け合い、財政支援の約束をとりつけます。こうしてSKOは89年〜91年、見事欧米ツアーを成功させます。

一方、小澤征爾さんはこの頃、日本の地方都市に根を下ろし、定期的にオペラを上演したいとの夢を抱くようになります。ただ、奈良が候補に挙がるものの良いホールはなく、小澤征爾さんの最大の理解者・江戸英雄さんは東での開催を求めていました。

そんな折、松本市で県松本文化会館(現在のキッセイ文化ホール)が建設中と知った小澤征爾さんは現地を視察。企業の協賛も取り付け、92年、サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現在のセイジ・オザワ松本フェスティバル)が初開催されます。

初回のオペラ「エディプス王」は舞台装置が大掛かりで、舞台に水を張り、雨を降らせました。経費は6億円以上。赤字は1億5千万円近くにのぼります。しかし、地元企業3社の補填もあって、なんとか初回講演を凌ぎます。当時、実施本部長の事務局長だった武井さんは、2016年の朝日新聞の取材に対しこう振り返っています。

ジャングルを切り開く想いだった。多くの企業が支援を続けてくれ、芸術的に価値ある成果を残せた。

このように、武井さんはセイジ・オザワ松本フェスティバル開催の功労者で、小澤征爾さんとは旧知の仲だったのです。

2.プログラム

2-1.クレデンザコンサート

「クレデンザ」はイタリア語で「サイドボード」の意ですが、英語のCredence(信用)の語源でもあります。王族や貴族の食べ物の毒見がこのクレデンザの上でされたことから、信用=クレデンザとなったそうです。

そして、このSPレコード盤再生用フロア型蓄音器「Victrola Credenza (ビクトローラ・クレデンザ)」も、「信用」と呼ばれることに誰も反対はしないでしょう。この蓄音機「クレデンザ」は、期待通りの美しい音色を響かせ、私たちを決して裏切らないからです。

今回の「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」では、そんな名機でいくつかの名曲を鑑賞してきました。

音楽で紐解く小澤征爾(後編)

2-1-1.ビクトローラとは

ビクトローラは木製キャビネットの中にターンテーブルとホーンを納めた蓄音機です。1906年、ビクタートーキングマシン(Victor Talking Machine Company;米レコード会社。母体は1895年にエミール・ベルリナーが設立したベルリーナ・グラモフォン社)が発表しました。「外観からメカニック的要素を省き、家具らしく」。それが開発コンセプトでした。

このビクトローラは、発売されるやすぐに大ヒット。以降、15ドルの小さな卓上用モデルから600ドルの高級モデルまで、様々な大きさやデザイン・モデルが販売され、あっという間に家庭用蓄音機の人気ブランドになりました。

2-1-2.ビクトローラ クレデンザ とは

そんな人気蓄音機「ビクトローラ」の中でも歴代最高峰として名高いのが「クレデンザ」です。この蓄音機に関しては様々な書物で取り上げられ、「傑作機」「希代の名機」「最高峰」「耽美な音色」など、数多くの賛辞を欲しいままにしています。名盤SP収集家の間ではもはや説明不要の一品で、世界最古にして最高峰の手動蓄音器であり、後の「電動蓄音器・ターンテーブル」とは一線を画す代物です。

優に100回を超える試作機の製作過程を経て完成したクレデンザ。アイデアが凝縮された機能やギミックは圧巻です。また、キャビネット内部で折りたたまれ収納された全長1.8mのホーンは、電気増幅がなくても良好な音圧・音質を奏でます。そして、電気再生音ではないため、マスキングなどがされていない忠実な音はとてもフラットで心地よく、何時間聞いても疲れることがありません。

蓋の開閉には空気圧を利用。閉める際、誤ってキャビを傷つけることもありません。回転速度の微調整もつまみで容易に行うことができ、再生終了時には自動で回転が止まる「オート・ストップ」には、当時の世界はたいへん驚きました。

モーターは手巻きツインモーター。2段階で回転を支えているため、むらなくプーリーが回転。また、本機は観音開きの4枚扉で構成されており、左右がレコード収納セクション、中央がホーン・グリルセクションです。

2-1-3.曲目

ビクトローラ クレデンザの音量は、アンプを使用しない生音なのに迫力満点でした。また、音質はクリアで明瞭、それでいてまろみがあって柔らか。さすがに低音こそ威力はそこまで強く感じられませんが、楽器によってはこちらの方が生音に近いのでは、と感じるような音色でした。

そんなビクトローラ クレデンザで鑑賞できた曲の一部を以下にご紹介します。

  • リスト「ラ・カンパネラ」
  • ショパンの練習曲「別れの曲/子犬のワルツ」
  • ベートベン「ロマンス」

その他にもたくさん鑑賞してきましたが、最初に流れた「ラ・カンパネラ」は非常に素晴しかったです。蓄音機の良さが凝縮していました。主催者の岩原さんが最初に選曲した理由が何となくわかったものです。

が、それはさておき、手動蓄音機は頻繁に使わないと狂ってしまうそうです。「蓄音機はその昔、時計屋でも売っていたのですよ」。クォーツ時計がまだ主流ではなかった時代を思い返すと、そんな解説に妙に納得したものです。そして、このクレデンザの所有者・岩原さんも、聞けば、ほぼ毎日クレデンザで名曲を楽しんでいるそうです。

名機は使ってこそ名機。
私もその意見には心から賛成です。

2-2.神田勇哉さんのフルート演奏

クレデンザで名曲を楽しんだ後は、東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者の神田勇哉さんによるフルート演奏がありました。音楽ばかりでなくトークも軽快で、楽しむと愉しむの両方が味わえた時間でした。

2-2-1.神田勇哉さんプロフィール

神田 勇哉(かんだ ゆうや)さんは1984年生まれ、長野県松本市出身のフルート奏者。Magnum Trioメンバー。7歳より居石ひとみの許でフルートを始め、長野県松本美須々ヶ丘高等学校を経て、東京芸術大学を首席で卒業、パリ地方音楽院にて研鑽を積みます。 現在は東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者。 ヴァンサン・リュカ、工藤重典、金昌国、中野富雄、神田寛明、木ノ脇道元に師事。これまでにアンサンブルofトウキョウ、藝大フィルハーモニア、N響室内楽等と共演。2012年には、若手音楽家が一流の歌手や演奏家と触れ合う小澤征爾音楽塾オペラプロジェクトⅩⅠ「蝶々夫人」にも参加。神田さんは楽都・松本が誇る新進気鋭の音楽家です。

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2-2-2.演目

ピアノ伴奏は井垣里沙さん。東京音楽大学ピアノ科卒業、同大学院伴奏科修了。
神田さんのフルートは、彼女のピアノととても美しく響き合い、音楽ファンなら誰もがうっとりする時間でした。

一曲目は、非常に趣向が凝っていました。
クレデンザにて、巨匠モイーズの「ハンガリー田園」のレコードを流した後に、神田さんが演奏しました。本人は「恐れ多い」とおっしゃっていましたが、どちらも素敵な音色でした。

二曲目は、フルートからピッコロに持ち替えて、モーツァルト作曲「魔笛」より「私は鳥刺し」「恋人か女房か」
を二曲続けて。

さらには、参加型のプログラムも用意されていました。
フルートの名機「ルイ・ロット」(神田さんは、フルートのストラディバリウスと表現していました)と現代のフルートとの聞き比べです。

どちらも美しい音色でしたが、現代のフルートは現代的な響きが、ルイ・ロットは妖艶な響きが印象的でした。ただ、音量があからさまに違っており、楽器づくりの進化が伺えました。

他、神田さんの演奏曲は以下の通りです。

  • 多久潤一郎「虹」
  • シネマファンタジー(神田さん選曲)
    ニューシネマパラダイス/ティファニーで朝食を/ムーンリバー/スターウォーズよりレイア姫のテーマ/虹の彼方に/マイ・フェア・レディ
  • ドビュッシー「シランクス」
  • ビゼー「カルメン」(フランソワ・ボルン編曲)
  • ガブリエル・フォーレ「ペレアスとメリザンド」より「シシリエンヌ」

2-2-3.トーク

神田さんの魅力は演奏だけではありませんでした。トークも非常に楽しく、勉強になりました。

まず、音楽家がいわゆる「仕事」をするのは、月に半分程度だそうです。といっても、それ以外の時間は自主練習に励んだり、表現力を高めるために美術館などを巡るそうですから、ほぼ休みなく音楽に明け暮れていることになります。さすがプロ。そう感じたものでした。

指揮者に関する話も興味深かったです。というのも、神田さんはしばしばこんな質問を受けるそうです。「指揮者によって音楽は変わるのですか?」。そのたび、神田さんは「イエス」と答えているそうです。理由は大きく2つあるそうです。

1つが、曲に対する解釈の統一です。音楽家の皆さんは、例えば「この部分はフォルテ」「この部分はもう少しゆっくり」など、全ての曲に対し自分流の解釈をお持ちだそうです。ですから、オーケストラのような集団では解釈の統一が必要になる、とのことでした。

2つ目は音量です。お客さんの耳にどう聞こえるかは、指揮者しか分かりません。ですから、指揮者がそれぞれのパーツの音量を指定することで、オーケストラがオーケストラとして機能するそうです。

また、フルートに関しても学びがたくさんありました。
何より衝撃的だったのは、その特殊奏法の多さです。今回のコンサートでは多久潤一郎の「虹」を披露していただきましたが、その曲中に登場する特殊奏法は何と7つ!だから「虹」というタイトルなのかは不明ですが、心躍る音楽でした。

そして、ガブリエル・フォーレ「シシリエンヌ」。アンコールで演奏していただいた曲ですが、これはフルートを始めた人が最もマスターしたがる曲だそうです。本当に私も大好きですが、隣にいた方は「フォーレ」の演奏があると分かった瞬間、「これが聞きたかったんだ」と感嘆の声を漏らしていました。

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3.会場設備

会場にはスピーカーが2セット設置されていました。エレクトロボイスの「SX-300」とボーズ「802Ⅱ」です。両方とも、世界中のイベントで活躍しているスピーカーです。

3-1.エレクトロボイス「SX-300」

家庭でも使用可能な、30cmコンパクト・スピーカーのベストモデルの1つ「SX-300」。樹脂製スピーカーの定番にしてEV(エレクトロボイス)の代表機種です。切れが良くシャープな高域と、レスポンスの良い低域。そして、耳あたりのよい万能サウンド。各種オプションにより設置や可搬性にも優れているので、イベント会場でも大人気にして大定番のスピーカーです。

小・中規模イベントのメインスピーカーからコンサートのサブスピーカー、効果音の仕込スピーカーまで、
あらゆるシーンで広く活躍するEVのロングセラー・スピーカーです。

〜EV「SX-300」の主な仕様〜

  • タイプ:2WAYフルレンジ
  • 周波数特性:50 Hz – 20 kHz(-10dB)
  • 許容入力:600W
  • インピーダンス:8ohms
  • 出力音圧レベル:99dB
  • ウーハーユニット:12インチウーハーDL12-BFH
  • ドライバー:1インチコンプレッションドライバー DH2010A
  • コネクター:スピコン x2 NL4MP
  • スタンドマウント:○
  • サイズ:42.9W×58.6H×31.2Dcm
  • 重量:14.5kg
  • 備考:65°×65°CDホーンは、スピーカーを縦横どちらにも設置でき、大きな開口部は広帯域にわたる優れた指向性コントロールを実現。プラスチック・エンクロージャー・タイプとして、常に人気を保っています

3-2.ボーズ「802Ⅱ」

人間の耳に聞こえる範囲の音を、どのように聞き手へ届けるか。そこに徹底的にこだわっているスピーカーメーカーがBOSE(ボーズ)です。ですから、ボーズのスピーカーは超高域や超低域は再現しません。だからといって、他社スピーカーと比較して遜色があるわけではありません。

そんなメーカーの802Ⅱは、11.5cmのドライバーを使用。これは過酷な使用に耐える製品と評判で、実際オーバーホールを含むメンテナンスをほぼ必要としません。また、このドライバーのコーンやエッジは、他メーカーと比べて経年変化の発生が少ない製品です。そのためイベント会場では非常に使用されることの多いスピーカーです。

発売は1984年11月。しかし、この「802Ⅱ」は、多くのイベント会場でまだまだ第一線で活躍している名機です。

〜BOSE「802Ⅱ」の主な仕様〜

  • 許容入力:240W(rms)、600W(peak)
  • インピーダンス:8Ω
  • 使用ユニット:フルレンジ11.5cm
  • 再生周波数帯域:50Hz~16kHz
  • サイズ:520W × 341H × 331D mm
  • 重量17.0Kg(カバー含む)、14.0Kg(カバーなし)

4.まとめ

小澤征爾さんの誕生日9月1日に開催された「小澤征爾 勝手にバースディ クレデンザコンサート」。特別ゲストに東京フィルハーモニー交響楽団首席フルート奏者の神田勇哉さんを招いたパーティーは、まさにクラッシック・ファンには最高の時間でした。特にアンコールで演奏された「フォーレ」の後は、拍手がなかなか鳴り止まなかったものです。

一方、オーディオファンにも珠玉の時間でした。ビクトローラ クレデンザ。別名「蓄音機の王様」。そんな名機が奏でる音は、まさに耽美な音色でした。また、選曲も素敵でした。さすが「松本SPレコード愛好会」です。心から敬愛の念を抱きつつ、敬意を表します。

そして、武井勇二さん。
この方がいたからこそ、セイジ・オザワ・松本フェスティバルは開催することができていて、今回のような企画も実現できたのだと思います。ありがとうございます。

楽都・松本には、様々な想いと音楽が絡み合って、素晴しい催しがいくつもあります。これからもオーディオ買取屋は、音楽を、オーディオを愛する者として、継続的に音楽イベントに参加し、皆さんに音楽シーンの盛り上がりをお伝えしていきます。

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2017年3月10日に公式プログラムが発表された「2017セイジ・オザワ 松本フェスティバル」。チケットも6月3日の午前10時より全国一斉発売開始され、いよいよ本格的に盛り上がってまいりました。

そこで今回は、2017セイジ・オザワ 松本フェスティバルを徹底ガイド。
少しでも音楽祭が盛り上がれば幸いです。

目次

  1. Aプログラム(8/18,8/20)
    1-1.詳細
    1-2.みどころ(ファビオ・ルイージはこんな人!)
    1-3.ファビオ・ルイージ 2017来日スケジュール
  2. Bプログラム(8/25,8/27)
    2-1.詳細
    2-2.みどころ
  3. Cプログラム(9/8,9/10)
    3-1.詳細
    3-2.みどころ(内田光子はこんな人!)
  4. 小澤征爾音楽塾オーケストラによるOMFオペラ(9/3)
    4-1.詳細
    4-2.出演
  5. 特別プログラム 内田光子リサイタル(9/4)
    5-1.詳細
    5-2.みどころ(こんな曲が演奏されます!)
  6. 室内楽
    6-1.ふれあいコンサートI(8/19)
    6-2.ふれあいコンサートII(8/26)
    6-3.ふれあいコンサートIII(9/2)
  7. OMF室内楽勉強会~金管アンサンブル~発表会(8/13)
  8. 子どものための音楽会(9/1)

1.Aプログラム(8/18,8/20)

1-1.詳細

<Aプログラム>
2017年8月18日(金) 開演19:00
2017年8月20日(日) 開演15:00
場所:キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
料金:S ¥22,000 A ¥18,000 B ¥15,000 C ¥8,000
公演時間:約1時間30分(休憩なし)
■マーラー:交響曲 第9番 ニ長調
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
指揮:ファビオ・ルイージ

家系から紐解く小澤征爾

1-2.みどころ(ファビオ・ルイージはこんな人!)

Aプログラム最大の見所は、指揮者「ファビオ・ルイージ(ルイジとも。Fabio Luisi)」だろう。彼は1959年1月17日生まれ、イタリア・ジェノヴァ出身の指揮者である。

ルイージは4歳からピアノを学び始め、パガニーニ音楽院でピアノのディプロマを取得し、アルド・チッコリーニに師事。次いでオーストリアのグラーツ音楽院でミラン・ホルヴァートに指揮法を師事し、1983年にグラーツ音楽院を卒業。1984年よりグラーツ歌劇場で活動を始める。

その後は、西ドイツおよびオーストリアの歌劇場にていくつもの実績を重ねるのだが、1990年にはグラーツ交響楽団を創設し、1995年まで芸術監督を歴任。1996年から2007年までライプツィヒ放送交響楽団芸術監督、1997年から2002年までスイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者を務めた。そして、2002年にリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」でザルツブルグ音楽祭に初登場すると、2005年から2013年までウィーン交響楽団の首席指揮者を務め、同楽団から「ゴールデン・ブルックナー・メダル」と「ゴールデン・ブルックナー・リング」を贈られた。

2007年8月よりザクセン州立歌劇場(ゼンパー・オーパー)およびシュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督に就任するも、シュターツカペレ・ドレスデンにおいては、2010年のジルヴェスターコンサートの指揮者をクリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann, 1959年4月1日生まれ。ドイツ・ベルリン出身)とすることが、音楽監督である自身の知らぬところで決定されたと主張し、任期満了を待たず一方的に契約を破棄している。

2010年より2012年までパシフィック・ミュージック・フェスティバル芸術監督、2012年よりメトロポリタン歌劇場首席指揮者ならびにチューリッヒ歌劇場音楽総監督。 2013年には、メトロポリタン歌劇場とのワーグナーの連作オペラ「ニーベルングの指環」において、4部作のうち後半2作の指揮にてグラミー賞を受賞。 ドイツ・グラモフォンからリリースされた同4部作(メトロポリタン・オペラでのライブ収録)のDVDでは2012年の最優秀オペラ・レコーディング賞を受賞。幅広いレパートリーの録音には、ヴェルディ、サリエリ、ベッリーニなどのオペラ、オネゲル、レスピーギ、リストなどの交響曲、フランツ・シュミットやリヒャルト・シュトラウスの作品、そして賞を受賞したブルックナーの交響曲第9番などがある。2015年には、フィルハーモニア・チューリッヒを指揮し、同管弦楽団独自のレーベル、フィルハーモニア・レコードの創設を記念してベルリオーズ、ワーグナー、および「リゴレット」を録音。加えて同レーベルからは、珍しい原典版によるブルックナーの交響曲第8番がリリースされた。

2017年からデンマーク国立交響楽団(DNSO)首席指揮者を務めるが、2016/2017シーズンの幕開けには、DNSOでマーラーの交響曲第9番(今回のAプログラムと同曲)を指揮している。

2018年春にはフィレンツェ歌劇場の音楽監督に就任予定のファビオ・ルイージ。
彼は生まれ故郷のジェノバから、同市への文化的貢献に対してグリフォドーロ賞(グリフィンドール賞)が授与されている一方で、香水づくりにも情熱をかけており、個人事業として行っている香水販売(flparfums.com)による収益は、ルイージが主宰するルイジ・アカデミー(Luisi Academy for Music and Visual Arts)の運営に充てられている。

1-3.ファビオ・ルイージ 2017来日スケジュール

日本においては、NHK交響楽団に定期的に客演しているほか、PMFの芸術監督を2010-2012年の間務めた。また、セイジオザワ・松本フェスティバルには2014年より毎年参加している。

彼の2017来日スケジュールは以下の通り。

■昭和音楽大学「テアトロ・ジーリオ・ショウワ」 公開レッスン
2017年4月11日(火) 18:30開講

■NHK交響楽団 第1858回 定期公演 Aプログラム
2017年4月15日(土) 18:00開演 NHKホール
2017年4月16日(日) 15:00開演 NHKホール
≪プログラム≫
アイネム:カプリッチョ 作品2(1943)
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64 (ヴァイオリン:ニコライ・ズナイダー)
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

■NHK交響楽団 第1859回 定期公演 Cプログラム
2017年4月21日(金)19:00開演 NHKホール
2017年4月22日(土)15:00開演 NHKホール
≪プログラム≫
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 (ピアノ:ベアトリーチェ・ラナ)
ブラームス:交響曲 第4番 ホ短調 作品98

■読売日本交響楽団特別演奏会
2017年8月24日(木)19時開演 東京芸術劇場
2017年8月25日(金)15時開演 横浜みなとみらいホール
指揮:ファビオ・ルイージ/管弦楽:読売日本交響楽団
≪プログラム≫
R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
ハイドン:交響曲第82番「熊」
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

2.Bプログラム(8/25,8/27)

2-1.詳細

<Bプログラム>
2017年8月25日(金) 開演19:00
2017年8月27日(日) 開演15:00
キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
■ベートーヴェン:レオノーレ序曲 第3番 Op.72b
■マーラー:「少年の魔法の角笛」より
■ドヴォルザーク:交響曲 第7番 ニ短調 Op.70, B141
演奏 :サイトウ・キネン・オーケストラ
指揮:小澤征爾(ベートーヴェン)
ナタリー・シュトゥッツマン(マーラー、ドヴォルザーク)
ソプラノ:リディア・トイシャー(マーラー)

音楽で紐解く小澤征爾(前編)

2-2.みどころ

2-2-1.小澤征爾 指揮のヴェートーベン

Bプログラムにおいて小澤征爾が指揮するのは、ベートヴェン「レオノーレ序曲 第3番 Op.72b」。ベートーヴェンが1806年初頭に作曲した序曲で、ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」のために作曲された作品。死後に発見された第1番、初演時に演奏された第2番、翌年の改訂版で演奏された第3番の計3種類があり、どれもベートーヴェンらしい傑作ではあるものの、とりわけ第3番は完成度やスケールの大きさから、独立して演奏される機会も多い名曲だ。

このオペラは、無実の罪から囚われの身となった夫フロレスタンを救助すべく、フィデリオと名を変え男装して獄中に潜り込み、命がけで夫を救出する妻レオノーレの勇気と夫婦の崇高な愛を描いた物語だった。そんな台本を受け取ったベートヴェンは、当時の流行メロドラマ風イタリアオペラとは違う、精神的にも芸術的にもより格調高いものを作りたい、と意気込んで作曲したと言われており、このオペラを書き上げたベートーヴェンは、後に「私の子供の中で最もかわいい作品」と人々に言っていたそうである。

2-2-2.マーラーとドヴォルザークを指揮するナタリー・シュトゥッツマン

Bプログラムにおいて、マーラー「少年の魔法の角笛」、ドヴォルザーク「交響曲 第7番 ニ短調 Op.70, B141」の指揮を務めるのはナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)。1965年6月5日生まれ、フランスはシュレンヌ出身。ソプラノ歌手だった母親の薫陶を受け、ナンシー音楽院(フランス語版)に進学後、パリ・オペラ座の付属学校でミシェル・セネシャルに師事。また、1983年から1987年までハンス・ホッターの下でドイツ・リート等を学ぶ。

1988年、ベルテルスマン国際声楽コンクールでの優勝をきっかけに、コントラルト歌手およびオペラ歌手としての国際的活動を開始。コントラルト歌手としてのレコーディングは、シューマンの歌曲、ショーソンやプーランク等のフランス歌曲をはじめ、ヴィヴァルディの宗教曲など多岐にわたる。そんな中でも、特にマーラー作品の歌唱には定評があり、サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル、ユッカ=ペッカ・サラステ指揮オスロ管、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ワシントン・ナショナル響、大野和士指揮ロンドン・フィルなどと共演。また、リサイタルでも高評価を獲得しており、長年にわたりスウェーデンのピアニスト、インゲル・ゼーデルグレンと共に世界各地で公演している。

一方、2008年からは指揮者としても活動を開始。フィンランドの伝説的指導者ヨルマ・パヌラに師事し、小澤征爾とサイモン・ラトルからも指導を受けており、2009年にはオルフェオ55という古楽系室内管弦楽団を創設して指揮者を務めている。

モンテカルロ歌劇場では2014年のドニゼッティ「愛の妙薬」の公演直後、即2017年のワーグナー「タンホイザー」の指揮者として招かれ、モーツァルトの「レクイエム」を指揮したサンパウロ響からは、その後複数の再演計画が進行中である。その他、ロイヤル・ストックホルム・フィル、デトロイト響、ワシントン・ナショナル響、シアトル響、ロンドン・フィル、新日本フィル、水戸室内管、そして、セイジ・オザワ松本フェスティバルなどから依頼を受けており、いま最も優れた音楽家の一人に挙げられている女性だ。

2-2-3.マーラーでソプラノを務めるリディア・トイシャー

演奏はサイトウ・キネン・オーケストラ、指揮はナタリー・シュトゥッツマン。そして、ソプラノを務めるのがリディア・トイシャー。

彼女はドイツ生まれで、音楽と演劇のウェールズ大学およびマンハイム音楽大学で学ぶ。
「フィガロの結婚」スザンナ役では世界で最も評価の高い一人で、その美声と愛らしい演技には毎回注目が集まる人気ソプラノである。

バイオグラフィーは以下。

■EASTER (復活祭)
■ヴォルフ:歌曲全集 9 (トイシャー/ホブス/ベルガー/ホル/カイノック)
■シューベルト:ドイツ語歌曲全集 22 「感傷主義」の詩人たち
■テレマン:ブロッケス受難曲(RIAS室内合唱団/ベルリン古楽アカデミー/ヤーコプス)
■ハイドン:ミサ曲第3番 「聖チェチリアのミサ」(アニマ・エテルナ合唱団/インマゼール)
■M. ハイドン:レクイエム 変ロ長調/モーツァルト:「神はわれらの避難所」/「主の御憐れみを」(ザールブリュッケン室内合唱団)
■J.S. バッハ:「心と口と行いと命もて」/マニフィカト BWV 243 (ミュンヘン・バッハ合唱団/アルブレヒト)
■ヘンデル:オラトリオ「エジプトのイスラエル人」(メンデルスゾーン版)(ウィリアムズ/トイシャー/ヒューレット/キングズ・コンソート/キング)
■ラインベルガー:宗教音楽集 10 – 讃歌集/サルヴェ・レジーナ/アヴェ・マリア/4つの悲歌(ミュラー/トイシャー/マルケルト/ペイヤー/ヨハンセン)
■ラインベルガー:水の妖精(ヘーガー/ミュラー/トイシャー/ヴェラー)
■ラインベルガー:ムジカ・サクラ(ベルニウス/メッテルニヒ/フランクハウザー/シェーファー/エドムンドソン/ヘーガー)
■レオナン/ジョスカン・デ・プレ/モンテヴェルディ/ジェズアルド/デュ・モン/パーセル/A. スカルラッティ:宗教合唱曲集

3.Cプログラム(9/8,9/10)

3-1.詳細

<Cプログラム>
9月8日(金)  開演19:00
9月10日(日) 開演15:00
キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
●グリーグ:組曲「ホルベアの時代」より Op.40
●R.シュトラウス:13管楽器のための組曲 変口長調 Op.4
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
指揮:小澤 征爾 (ベートーヴェン)
ピアノ:内田 光子

日本一のCDコンサート実現へ。 セイジ・オザワ松本フェスティバル

3-2.みどころ(内田光子はこんな人!)

Cプログラムのピアノは世界の内田光子。1948年12月20日生まれ、静岡県熱海市出身のピアニストである。お茶の水女子大学附属小学校在学中、桐朋学園の「子供のための音楽教室」にて、松岡貞子にピアノを学ぶ。

12歳の時、外交官だった父・内田藤雄と共にオーストリアのウィーンに渡航。14歳、オーストリアのウィーン音楽院でリヒャルト・ハウザーに師事。16歳、父のドイツ赴任が決定するも、内田は単身ウィーンに残り、ウィーン国立音楽大学でピアノを学ぶ。そして、その後もアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、ヴィルヘルム・ケンプ、ステファン・アスケナーゼ、ニキタ・マガロフらの薫陶を受ける。

デビューは1971年、イギリスのウィグモア・ホールで開催された演奏会。その後、1972年に拠点をロンドンに移すも、大手レコード会社からのオファーは全くなく、日本では演奏会を開くことすらままならないほど、1970年代は内田にとって不遇の時代であった。

転機が訪れたのは1982年だった。
東京文化会館小ホール、そしてロンドンのウィグモア・ホールでのモーツァルト「ピアノ・ソナタ連続演奏会」は「ウチダの火曜日」とロンドンの批評家から絶賛。一躍、楽壇の寵児となり、1984年にイギリス室内管弦楽団を自ら指揮しつつ演奏したモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲演奏会を契機に、フィリップスにモーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲を全曲録音。これら一連のチクルスは空前の大成功を収め、以降は名実ともに国際的な名声を不動のものとした。

2010年発売の「モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番・第24番」で第53回グラミー賞の「最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞」、2017年にはドロテア・レシュマンとの作品『シューマン:リーダークライス、女の愛と生涯/ベルク:初期の7つの歌』で最優秀クラシック・ヴォーカル・アルバム(ソロ)」部門で受賞と、二度も栄冠を獲得している。

こうした経歴もあって、現在では「世界のUchida」として称される世界きってのピアニストだ。

4.小澤征爾音楽塾オーケストラによるOMFオペラ(9/3)

4-1.詳細

〈小澤征爾音楽塾オーケストラによるOMFオペラ〉
2017年9月3日(日) 開演15:00
まつもと市民芸術館・主ホール
■ラヴェル:「子どもと魔法」
演奏:小澤征爾音楽塾オーケストラ
指揮:デリック・イノウエ
演出:デイヴィッド・ニース

4-2.出演

子ども:
マリー・ルノルマン(Marie Lenormand)。メゾ・ソプラノ。フランス出身。1999年から2002年までヒューストングランドオペラスタジオでトレーニングを終え、様々なメインシアターで歌唱。小澤征爾のグラミー賞受賞作品にも参加。

肘掛椅子/木:
駒田敏章。バリトン。愛知県出身。東京芸術大学大学院修了。友森美文、多田羅迪夫、ローマン・トレーケルらに師事。2012年オランダ・グローニンゲンで開催された音楽祭にて、ラヴェル『スペインの時』ラミーロ役にオーディションで選ばれ出演、音楽祭のファイナルコンサートに声楽代表として選出され、Labberte-Hoedemaker Awardを受賞。

母親/中国茶碗/とんぼ:
牧野真由美。メゾソプラノ。東京都出身。東京芸術大学卒業、同大学大学院修了。スイス・ロカルノ「ティチーノ・ムジカ」にてマグダ・オリヴェロ、チャールズ・スペンサーの両氏、ニューヨークにてピエール・ヴァレ氏に師事。第3回藤沢オペラコンクール奨励賞、第30回イタリア声楽コンコルソ金賞受賞。

火/お姫様/うぐいす:
アナ・クリスティ(Anna Christy)。ソプラノ。アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれ、カリフォルニア州パサデナ育ち。ライス大学とシンシナティ大学、音楽大学音楽院を卒業。デビュは2000年のニューヨーク・シティ・オペラ。マーティン・E・シーガル賞を受賞。

雌猫/りす:
清水多恵子。ソプラノ。群馬県出身。武蔵野音楽大学大学院修了。二期会オペラ研修所第54期マスタークラス修了。修了時に優秀賞受賞。第17回日本クラシック音楽コンクール入選。第11回全国「叱られて」歌唱コンクール入賞。

大時計/雄猫:
町英和。バリトン。鹿児島県出身。国立音楽大学音楽学部声楽科卒業、同大学院音楽研究科声楽専攻を首席で終了。新国立劇場オペラ研究所第6期終了。文化庁新進芸術家海外研修員としてボローニャ、(財)ローム ミュージックファンデーションの助成を受けミュンヘンに留学した経歴を持つ。

ティーポット/小さな老人/雨蛙:
マティアス・ヴィダル(Mathias Vidal)。テノール。ニース大学卒業。そして2003年にはパリ国立音楽院を卒業し、2007年にADAMIから”révélationclassique”の称号を授与。

安楽椅子/こうもり:
栗林瑛利子。ソプラノ。神奈川県出身。東京芸術大学音楽学部声楽科、同大学院音楽研究科声楽専攻(オペラ)修士過程修了。学部卒業時、同声会賞、アカンサス賞受賞。

羊飼いの娘/ふくろう:
藤井玲南。ソプラノ。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。ウィーン国立音楽大学リート・オラトリオ科卒業。在欧中、Antonín Dvořák国際声楽コンクールオペラ部門第1位受賞をはじめ、Ada Sari国際声楽コンクール第3位、Hans Gabor Belvedere国際声楽コンクールOlga Warla-Kolo賞など受賞多数。

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5.特別プログラム 内田光子リサイタル(9/4)

5-1.詳細

〈特別プログラム 内田光子リサイタル〉
2017年9月4日(月)開演 19:00
キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
料金:S ¥10,000 A ¥8,000 B ¥5,000 C ¥3,000
公演時間:約2時間(休憩あり)
■シェーンベルク:6つの小さなピアノ曲 Op.19
■シューベルト:ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D.850
■シューマン:幻想曲 ハ長調 Op.17
ピアノ:内田 光子

5-2.みどころ

世界のウチダが選んだ一曲目は「6つの小さなピアノ曲 Op.19」。オーストリア生まれのアルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg、1874年9月13日-1951年7月13日)が1911年に作曲。シェーンベルクは調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られるが、この曲にて、調性をほぼ完全に放棄するに至ったとも言われている。

二曲目は「ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D.850」。シューベルト作曲。村上春樹も非常に愛する曲で、彼の著書「意味がなければスイングはない」では、独自の持論が展開されている。

三曲目は「幻想曲 ハ長調 Op.17」。シューマン作曲。後に妻となるクララ・ヴィークとの交際を、クララの父に禁じられている頃に作られた。冒頭のA,G,F,E,Dの5つの音からなるテーマはクララを表現。しかし、作品自体はベートーヴェンの記念碑を建てる資金集めのために作曲されている。

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6.室内楽

6-1.ふれあいコンサートI(8/19)

〈ふれあいコンサートI〉
2017年8月19日(土)開演 16:00
ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール)
料金:¥6,000(全席指定)
公演時間 約2時間(休憩あり)
■プレトリウス:「テレプシコーレ舞曲集」より
■ジョン・ウィリアムズ スペシャルセレクション ほか
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ ブラス・アンサンブル
トランペット:ガボール・タルコヴィ、カール・ゾードル、高橋 敦、服部 孝也
ホルン:ラデク・バボラーク、阿部 麿、勝俣 泰
トロンボーン:ワルター・フォーグルマイヤー、呉 信一、ランダル・ホーズ
チューバ:杉山 康人
ティンパニ&パーカッション:竹島 悟史

6-2.ふれあいコンサートII(8/26)

〈ふれあいコンサートII〉
2017年8月26日(土)開演 16:00
ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール)
料金:¥6,000(全席指定)
公演時間 約2時間(休憩あり)
■J.S.バッハ:フルート・ソナタハ長調 BWV 1033
■ラフマニノフ: ピアノ三重奏曲 第1番 ト短調「悲しみの三重奏曲」
■ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲 第3番 ヘ短調 Op.65, B.130
■シューベルト:弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調「死と乙女」D.810
フルート:ジャック・ズーン
チェロ:イズー・シュア
ハープ:吉野 直子
ピアノ:江口 玲
ヴェリタス弦楽四重奏団(ヴァイオリン:岩崎 潤、島田 真千子 ヴィオラ:小倉 幸子 チェロ:工藤 すみれ)

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6-3.ふれあいコンサートIII(9/2)

〈ふれあいコンサートIII〉
2017年9月2日(土)開演 16:00
ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール)
料金:¥6,000(全席指定)
公演時間:約1時間40分(休憩あり)
■シェーンベルク:月に憑かれたピエロ Op.21
■シェーンベルク:浄夜 Op.4(弦楽オーケストラ版)
声:リディア・トイシャー
ヴァイオリン/ヴィオラ:豊嶋 泰嗣
チェロ:宮田 大
フルート:セバスチャン・ジャコー
クラリネット: 中 秀仁
ピアノ:江口 玲
サイトウ・キネン・オーケストラ 弦楽アンサンブル

7.OMF室内楽勉強会~金管アンサンブル~発表会(8/13)

〈OMF室内楽勉強会~金管アンサンブル~発表会〉
2017年8月13日(日)開演 15:00
あがたの森文化会館 講堂
料金:¥1,000(全席自由)
公演時間:約2時間(休憩あり)

オーディションにて選ばれた若手金管奏者10名が、サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)メンバー(ティモシー・モリソン/猶井正幸/呉信一)指導のもと、合宿を通して学んだ室内楽アンサンブルの成果を発表。

8.子どものための音楽会(9/1)

教育プログラムにつき、一般の入場が禁止されている音楽会。

〈子どものための音楽会〉
※長野県内小学6年生を招待
2017年9月1日(金) 開演11:00/14:00
松本市総合体育館
演奏:小澤征爾音楽塾オーケストラ
指揮:小澤 征爾 他

〈子どものためのオペラ 〉
ラヴェル:「子どもと魔法」
※長野県内中学1年生を招待
2017年9月5日(火) 開演11:00/15:00
2017年9月6日(水) 開演11:00/15:00
まつもと市民芸術館・主ホール
演奏:小澤征爾音楽塾オーケストラ
指揮:デリック・イノウエ
演出:デイヴィッド・ニース

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前回までで小澤征爾の略歴をまとめてきましたが、今回は「知っているようで知らない小澤征爾の秘話」。

  1. 小澤征爾のつくったオーケストラ
    1-1.新日本フィルハーモニー
    1-2.サイトウ・キネン・オーケストラ
  2. 小澤征爾の「指揮」にまつわる秘話
    2-1.なぜ指揮者になったのか
    2-3.なぜ指揮棒を持たないのか
  3. 小澤征爾の秘話
    3-1.ブザンソンの秘話
    3-2.カラヤンコンクールの秘話
    3-3.小澤征爾の父の葬儀と三島由紀夫
  4. まとめ

 

1.小澤征爾のつくったオーケストラ

1-1.新日本フィルハーモニー

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N響事件以降、日本の音楽会に居場所を失った小澤征爾。しかし、フジテレビ社長の水野成夫が「日本フィルハーモニー交響楽団」の首席指揮者のポジションを用意し(日フィルは水野成夫が作ったオーケストラで、親会社はフジテレビと文化放送)、1968年、小澤征爾はシカゴのラヴィニア音楽祭やトロント交響楽団の仕事と並行して、日本でも定期的に指揮するようになります。
しかし、1971年のことです。日フィルの楽員は待遇の向上を求めて親会社と衝突。年末に日本のオーケストラ初のストライキを起こします。事態収拾のメドは全く立たず、水野の後任のフジテレビ社長・鹿内信隆ら経営陣は、翌年5月、日フィルの解散を決定します。

この事態を受け、小澤征爾は斎藤秀雄に師事した同門・山本直純(作曲家。映画「男はつらいよ」のテーマ曲を作曲したり、「サントリー1万人の第九」を企画するなど、日本の音楽普及に最も貢献したひとり)や、文化放送社長・友田信と面談を重ねるも、決定はくつがえらず。そして6月、小澤征爾はとんでもないことをしでかしてしまいます。日本芸術院賞の授賞式のことです。天皇陛下に「自分だけ賞をもらったけど、今一緒にやっている日フィルは大変なんです」と直訴してしまいます。しかもその日の小澤征爾の格好は、風邪で目が腫れていたこともあってサングラスを着用していました。そんな怪しげな姿が翌日の新聞に載ったものですから、小澤征爾の元には脅迫めいた手紙が届くようになります。

その頃の小澤征爾には、生まれたばかりの娘・征良がいました。そのため家族を案じた小澤征爾は赤坂のホテルで暮らすようになります。そして、そのときの小澤征爾をバックアップしたのが、日本船舶振興会の会長・笹川良一です。笹川は全日本空手道連盟会長でもあったため、小澤征爾の音楽会は一時期、空手の強者たちが最前列にずらっと座ります

いずれにせよ、日フィルは6月に解散するのですが、最後の定期演奏会のことです。世界最高峰のオーケストラ「シカゴ交響楽団」のトランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレベンジャーをゲストで招き、小澤征爾はマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮します。そして1972年のことです。小澤征爾と山本直純は、日フィルを退団した楽員の1/3を率いて、まるで日フィルを「復活」させるかのごとく「新日本フィルハーモニー交響楽団」を設立します。

その直後、あの有名な音楽番組「オーケストラがやって来た」が始まり、新日フィルはその番組内の演奏を担当します。

音楽番組「オーケストラがやって来た」には小澤征爾も非常に協力的で、自身もかなりの数に出演する一方、バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、ピアノのルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキンなど、親しい外国の音楽家にも積極的に主演してもらい、番組を盛り上げました。

 

1-2.サイトウ・キネン・オーケストラ

小澤征爾には4人の師匠がいます。学生時代の齋藤秀雄、ブザンソンコンクールで優勝した直後はシャルル・ミュンシュ、そしてレナード・バーンスタインとヘルベルト・フォン・カラヤン

齋藤からは合理的な指揮法を学び、ミュンシュからはベルリオーズを始めとするフランス音楽を学んでいます。バーンスタインからは師匠というより友人として(小澤征爾には自分のことを、愛称の「レニー」で呼ばせていました)、オーケストラへのコミュニケーションとオーケストラの教育法を学んでいます。そして、カラヤンからは音楽のこと、音楽的コミュニケーションのこと、さらには指揮者は勤勉と相応の知性を持つことなど、多くのことを学んでいます。

しかし、そんな中でも斎藤秀雄は、小澤征爾にとってとても大きな存在でした。斎藤秀雄の没後10年にあたる1984年のことです。小澤征爾と同じく斎藤の弟子である秋山和慶は、一緒になって国内外で活躍する斎藤の教え子たちを集結させます。そして同年9月、東京と大阪で「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」を開催。サイトウ・キネン・オーケストラは、そこで特別編成された『桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ』が母体のオーケストラです

設立当初は、斎藤の門下生100名以上が国内外より集まり演奏会を開催しますが、自主運営によるオーケストラのため、演奏家は無給出演でした。しかし、この演奏会が大成功を収めると、1987年、主にNECがスポンサーとなって、ヨーロッパ演奏ツアーを始めます。

やはり海外でも反応は上々。その状況をみて、小澤征爾のマネージャー・ウィルフォードは「日本で音楽祭の開催地を募り、日本で腰を据えてやるべきだ」と小澤征爾に助言します。そして、小澤征爾は開催地を探し始めるのですが、なかなかうまくいきません。そんな折のことでした。オーディオ買取屋のある長野県松本市で、県立文化会館が建設中であるという情報を耳にします。そして、実際に小澤征爾が足を運んでみると、これがとても素晴しい。そこですぐに、吉村午良(ごろう)県知事と松本市の和合正治市長を訪ね、音楽祭の開催を申し入れます。

その申し出は快諾され、さらにセイコーエプソン、キッセイ薬品工業、八十二銀行、アルピコグループ、信濃毎日新聞社など、地元企業の協力も得ます。そして1992年9月5日。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が幕を開けます

初日は武満徹さん作曲の「セレモニアル」の世界初演。翌日はストラヴィンスキーのオペラ「エディプス王」を上演。小澤征爾の盟友でソプラノのジェシー・ノーマンも出演し、プロデューサーはメトロポリタン歌劇場の総裁にもなったピーター・ゲルブという顔ぶれの演奏会でした。

サイトウ・キネン・オーケストラは、世界的に高い評価を受けているオーケストラです。2008年にはグラモフォン誌による”The world’s greatest orchestras”(世界のトップ20オーケストラ)で日本から唯一選出され、19位に選ばれています

 

2.小澤征爾の「指揮」にまつわる秘話

2-1.なぜ指揮者になったのか

小澤征爾は成城学園中学に入学してすぐ、同級生だった松尾勝吾に誘われてラグビーを始めると(松尾勝吾は、新日鉄釜石の松尾雄治の叔父)、たちまち夢中になってしまいます。ポジションはフォワード。小澤征爾は放課後になると毎日、夕方遅くまで運動場を走り回っていました
もちろん、小澤征爾の母親はラグビーを禁止していました。ピアニストにとって指は命です。しかし、そんな母の小言に耳を貸さなかった小澤征爾は、練習後は成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預けたりして、隠れてラグビーに打ち込みます。が、中学3年になる直前のことでした。小澤征爾は、成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ入院します。

小澤征爾の、ピアニストとしての夢が破れた瞬間でした。

退院後、小澤征爾は当時のピアノの先生に言います。「もうピアノは続けられなくなりました」。すると、先生は「音楽をやめるのか」という質問を小澤征爾に投げるのですが、彼が黙っていると、静かに口を開きます。「『指揮者』というのがある」。

そうです。これが、小澤征爾がマエストロの道を歩むことになった始まりです。
小澤征爾が指揮者になったのは、ラグビーで骨折したからでした。もしその事故がなければ、ひょっとすると、指揮者「小澤征爾」は存在せず、あるいはピアニスト「小澤征爾」だったかもしれないのです。

 

2-2.なぜ指揮棒を持たないのか

小澤征爾も、かつては指揮棒にこだわりがありました。
「とても使いやすく見えた」
そんな理由で、フィラデルフィア管弦楽団で活躍したユージン・オーマンディの指揮棒を盗んだこともあるほどです。釣り竿にワインのコルクが刺してある物なのですが、実際、小澤征爾は同様の指揮棒を使っている時もありました。

ところが、とある日のウイーンでの演奏会でのことです。小澤征爾は指揮棒を自宅に忘れてしまいます。気づいた時にはすでに取りに戻る時間もなく、スタッフが別の指揮棒を用意してくれたもののしっくりきません。そこで手だけで指揮することを決意します。

指揮者としては指揮棒を持たないことは苦渋の選択だったのですが、意外にも楽員からは誰の指摘を受けませんでした。良いも悪いもありませんでした。
「ということはみんな見ていないんだな」
それが、小澤征爾が指揮棒を持たなくなった原因です。

とはいえ、指揮棒を持たないことにはメリットもあるようです。小澤征爾が言うには、「何かを手に持つことによって、落としちゃいけないとか、飛んでいったら大変だとか、色々考えなければならなくなる。それから解放されるのだから、むしろ持たない方がいいのでは」ということらしいです

 

3.小澤征爾の秘話

3-1.ブザンソンの秘話

音楽で紐解く小澤征爾(前編)の「2.海を渡った小澤征爾」でお話ししたように、小澤征爾の海外での活躍の始まりは、1959年、第9回「ブザンソン国際指揮者コンクール」優勝です。そのコンクールを勧めたのが、後に妻となる江戸京子だったわけですが、とにかく小澤征爾が「ブザンソン国際指揮者コンクール」の願書を取りに行ったときのことです。まさに締め切りがその日である上に、外国人には大使館の証明が必要だということが判明します。

そこで、小澤征爾は急いで日本大使館へと向かいます。しかし、当時の小澤征爾は非常に貧しく、何度かイギリス館の家賃の支払が遅れていました。さらに、彼はれっきとした留学生ではなかったものですから、大使館にとても怪しまれてしまいます。いえ、怪しまれただけではありませんでした。強制送還。そこまで話は発展し、小澤征爾は「今すぐ飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求する」と言い渡されます

そんなことされたら大変だ。
というわけで、小澤征爾はその場から逃げ出します。

そんな窮状を救ってくれたのが、イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人ピアニストでした。「アメリカ大使館に知り合いがいるから相談してみよう」。そう申し出てくれます。

その言葉を聞いた小澤征爾は、わらにもすがる思いでアメリカ大使館へ向かいます。そして、そこで対応してくれたのがカッサ・ド・フォルテという女性だったのですが、彼女に「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」といきなり質問され、小澤征爾はひるまず大声で断言します。「僕はいい指揮者だ」。すると彼女はその場で大笑いし、すぐにコンクールの事務局に電話で掛け合い、受験を認めさせます。

こうした運命的な巡り合わせを経て、小澤征爾は「ブザンソン国際指揮者コンクール」に出場しているのです。本当に、何とも強運の持ち主です。

 

3-2.カラヤンコンクールの秘話

「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開く」。そんな情報を小澤征爾に与えたのが、ベルリン在住の歌手・田中路子でした。田中は斎藤秀雄と旧知の仲で、色々と小澤征爾の面倒を見ていた女性です。夫は俳優のヴィクター・デ・コーバ。彼がヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、田中夫妻は「ヘルベルト」と、カラヤンをファーストネームで呼んでいたそうです。

カラヤンと言えば、小澤征爾にとっては憧れの人でした。晩年は、小澤征爾もファーストネームの「ヘルベルト」と呼ぶように本人に言われていたそうですが、断固と拒否。頑に、ずっと「カラヤン先生」と呼んだそうです。

そんなカラヤン主催のコンクール前日のことです。小澤征爾は試験会場で課題曲を間違えていることに気付きます。しかし、そこは天才・小澤征爾です。徹夜で猛勉強をして、何と一夜漬けでそのコンクールにパスするのです。

 

3-3.小澤征爾の父の葬儀と三島由紀夫

1970年11月21日。小澤征爾のサンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演の直前、父・開作が急死します。葬儀は1970年11月25日、日本フィルハーモニー交響楽団の曙橋の練習場でした。

しかし、当日は弔問客がまったく到着しませんでした。何があったか。「楯の会事件(たてのかいじけん)」、別名「三島事件」。日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に、割腹自殺をした事件が起きたのです。

三島由紀夫と言えば、小澤征爾がN響にボイコットされた際、朝日新聞に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を寄せ、「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成した中心人物です。

小澤征爾と三島由紀夫には、こんな運命の糸でも繋がっていたのでした。

 

4.まとめ

三回に渡ってお届けした「音楽で紐解く小澤征爾」。小澤征爾は本当に色々な幸運・不運を乗り越え、数えきれない程の様々な出会いを経験し、今こうして活躍されているのです
巡り合わせとは本当に大切です。
ですから、私たちオーディオ買取屋も、せっかく私たちの街・松本でセイジオザワフェスティバルが開催されているのですから、もっと小澤征爾について知り、彼を応援したいと思います。

来年は是非、松本市で開催されるセイジオザワフェスティバルにて、小澤征爾や皆さんとお会いしたいものです。
ではまたお目にかかります。
それまで皆さん、ごきげんよう。

前回は小澤征爾が海外で活躍し始めることまでをまとめましたが、今回はその続きを。

 

  1. 小澤征爾が日本を捨てた理由
    1-1.N響事件とは
    1-2.N響側の意見
    1-3.セイジの味方
    1-4.その後
  2. 小澤征爾の受賞歴
    2-1.躍進続く20世紀
    2-2.受賞ラッシュの21世紀
  3. まとめ

1.小澤征爾が日本を捨てた理由

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小澤征爾の活躍の場がほとんど海外であるのには理由があります。実は、彼はこう言っていた頃があります。
もう、日本になんか帰らない
そうです。小澤征爾は日本を見限ったことがあるのです。それは1962年の、N響事件がきっかけでした。

 

1-1.N響事件とは

1961年7月の杉並公会堂での放送録音が、小澤征爾とNHK交響楽団(N響)の初顔合わせでした。それを経て、小澤征爾は翌1962年6月から半年間、「客演指揮者」として契約します。当初は6月の定期を含めた夏期のみの契約予定でしたが、秋の定期の予定指揮者ラファエル・クーベリックが出演をキャンセル。そのため12月まで契約期間が延長されました。

小澤征爾とN響は、7月にはオリヴィエ・メシアン作曲「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演を成功に導き、両者はとても相性が良い思われていました。が、10月の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への2週間の演奏旅行にて、小澤征爾とN響との間に感情的な軋轢が生じます

そして、その年の11月です。第434回定期公演が新聞に酷評された直後、N響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には、一切協力しない」と表明します。小澤征爾はNHKと何度か折衝を重ねますが、なかなか折り合いがつきません。しまいには、N響の理事は小澤征爾を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明まで送りつけます。一方、小澤征爾も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴えます。

その結果、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表されるわけですが、それでもその当日、小澤征爾は東京文化会館大ホールの舞台で独り、楽員の到着を待ちます。が、誰も来ません。客も来ません。そして、そのボイコットの様子を、各新聞社は小澤征爾がたった独りで指揮台に経つ写真とともに、とても大きく掲載します。

これが「N響事件」ですが、この騒ぎは政財界を巻き込む社会問題へと発展します。石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、谷川俊太郎、三島由紀夫などが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出。さらに芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が、事件の真相調査にまで乗り出します

 

1-2.N響側の意見

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フィリピン・マニラ公演でのことです。小澤征爾はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」の演奏時に、現地のピアニストが弾くカデンツァの途中、うっかり指揮棒を上げてしまいます。もちろん、それでオーケストラは楽器を構えます。しかし、カデンツァはまだ続いているわけですから、誰の目にも小澤征爾のミスであることは明らかでした。

このミスにより演奏は混乱。コンサートマスターの海野義雄らは大恥をかきます。そして、N響側はそのミスの原因を「小澤征爾が朝六時半まで飲み明かし、マニラ公演に臨んだからだ」と話します

しかしそれに対し、小澤征爾は真っ向から反論。「副指揮者もいない上、当日は首の肉ばなれのために39度の熱があってドクターストップを受けていた。そのような環境・状態で棒を振ったためミスをした」と弁明します。それが一層N響幹部の怒りに油を注ぎます。

また、そもそも小澤征爾は「朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもその非礼を詫びないことが多かったそうです。それもまた、N響からの反感を買った一因だといわれています。

 

1-3.セイジの味方

とはいえ、小澤征爾にも強い味方が何人もいました。
浅利慶太、石原慎太郎、一柳慧、井上靖、大江健三郎、武満徹、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、そして三島由紀夫らは、年が明けた1月15日、日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開催。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。当日は超満員の日比谷公会堂で、小澤征爾と日本フィルハーモニー交響楽団はシューベルトの「交響曲第8番未完成」を熱演し、喝采を浴びます。

そしてその翌日の朝日新聞の朝刊には、三島由紀夫が「熱狂にこたえる道―小澤征爾の音楽をきいて」という一文を発表。N響事件は小澤征爾への青年蔑視だと問題提起します(当時の小澤征爾は27歳)。

1-4.その後

結論から言うと、小澤征爾とN響は、吉田秀和や中島健蔵らの斡旋により、形式上はすぐに和解します。しかし、小澤征爾とN響との共演がそれから32年後ということに鑑みれば、両者には相当な深い溝があったことは容易く想像できると思います。

 

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その32年ぶりの共演は、1995年。サントリーホールにて日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会でした。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、J.S.バッハの「G線上のアリア」(阪神・淡路大震災犠牲者追悼)など四曲を演奏。N響からの依頼を引き受けた理由として「当時の楽団員の多くがいなくなったから」との発言をしていますが、2005年にはマーカス・ロバーツを共演者に迎え、「子供たちのためのコンサート」を再びN響と共演しています。

N響事件の真相は、もちろん当事者にしかわかりません。
ただ、この事件に関して色々な人が様々な意見を述べています。その中でも、原田三朗は「小澤征爾の遅刻や勉強不足という、若さゆえの甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用」と発表。また、小澤征爾も数十年後に「あの頃は若造だった」と省みており、さらにあの事件後はいっそう勉強に取り組むようになったそうです

 

2.小澤征爾の受賞歴

2-1.躍進続く20世紀

1964年から68年まで、小澤征爾はトロント交響楽団の指揮者に就任します。

トロント交響楽団(Toronto Symphony Orchestra)は、カナダのトロントを本拠地とするオーケストラです。100以上の厳選されたプログラムを持ち、例年20万人以上の集客を誇ります。本拠地はロイトムソンホール。座席数は3540。この建物では毎年トロント国際映画祭の会場としても使用されている他、映画「X-メン」の撮影場所としても使用され、建築の観点からもとても魅力的な建造物です。

1966年には、小澤征爾はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初指揮を果たします。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、音楽の都ウィーンを代表する管弦楽団(オーケストラ)です。世界一のオーケストラと称する人もいるオケです。

1968年には、日本の音楽会に居場所がなかった小澤征爾に、フジテレビ社長の水野成夫が日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者のポストを用意します(日フィルは水野が作ったオーケストラで、親会社はフジテレビと文化放送)。

そして1970年のことです。小澤征爾はタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任します。このタングルウッド音楽祭は、35万人にのぼる観客数を動員する世界的に有名な音楽祭です。レジデンス・オーケストラはボストン交響楽団。過去にはセルゲイ・クーセヴィツキー、シャルル・ミュンシュ、レナード・バーンスタインなどが音楽監督を務めています。

また、同年にはサンフランシスコ交響楽団の音楽監督にも就任します。このオーケストラは1911年が最初の演奏会である老舗オケです。国内外で定期的に演奏旅行を行い、その演奏は多くのラジオ局によって毎週のように放送されています。

順風満帆に見えた小澤征爾ですが、1971年に試練が訪れます。日フィルの楽員たちが待遇の向上を求めて親会社と衝突し、12月にストライキを起こてしまいます。これは日本のオーケストラで初のストであり、結局これが引き金となって日フィルは解散となってしまいます

そして翌年の1972年、小澤征爾は日本芸術院賞を受賞するのですが、その授賞式で、天皇陛下に日フィルの処遇改善を求めて直訴してしまいます。これにより小澤征爾は新聞各社からバッシングされ、と同時に脅迫文が頻繁に届くようになり、家族を一時ホテル住まいさせます。

しかし、そんな環境を乗り越えて、1973年、小澤征爾38歳、とうとうアメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任します。と同時に、ボストンで活躍すればするほど活動の場は広がりをみせ、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへも出演します。

ちなみに、小澤征爾はボストン交響楽団の音楽監督を2002年まで務めたのですが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことです。

 

2-2.受賞ラッシュの21世紀

1998年、小澤征爾は長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。また、開会式では、小澤征爾はベートーベン第九を指揮し、開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結びました。

2002年には、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは毎年1月1日にウィーン楽友協会の大ホール(黄金のホール)で行なわれるマチネ(昼公演)の演奏会で、ヨハン・シュトラウス2世を中心とするシュトラウス家の楽曲が主に演奏されます。観客は正装し、雰囲気は信念に相応しくとても華やか。チケットも入手困難を極め、最もプレミアが付く演奏会としても有名です。

また、同年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督にも就任。ウィーン国立歌劇場はオーストリアのウィーンにある歌劇場で、専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団は、世界でも一、二の人気を争うオーケストラ「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」の母体です。

2008年には文化勲章を受章。2010年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈されます。
また、2012年には「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(村上春樹との共著)で小林秀雄賞受賞。翌2013年には、故吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任しています。

そして2015年には、日本人として初めてケネディ・センター名誉賞を受賞すると、同年8月から、セイジ・オザワ松本フェスティバルを長野県松本市で開催。2016年には自らが指揮する歌劇「こどもと魔法」(ラヴェル作曲)を収めるアルバムがグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞します。

グラミー賞は米音楽界で最も権威ある賞と同時に、世界でも最も権威ある音楽賞の一つと見なされている賞です。そこにノミネートされるだけでも快挙と言えますが、小澤征爾は8度目のノミネートにして、サイトウ・キネン・オーケストラとの、しかも日本録音作品での受賞という快挙を遂げます。

2016年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団より名誉団員の称号が贈呈。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、1882年創立のドイツ名門のオーケストラで、オーストリアの「ウィーンフィルハーモニー管弦楽団」と、「アメリカのシカゴ交響楽団」とともに世界三大オーケストラと称されているオーケストラです。

そして今年の2016年10月には、東京都より名誉都民に顕彰されましたが、小澤征爾は世界の政府からもいくつか賞を授与しています。
2002年にはオーストリア政府より「勲一等十字勲章」を叙勲2008年には、フランス政府より「レジオンドヌール勲章」を叙勲されています。この「レジオンドヌール勲章」はフランスにおける最高勲章とされる非常に権威のあるものです。そしてこの勲章には5つの等級があり、小澤征爾は4番目の等級となる「オフィシエ(将校)」が与えられました。

3.まとめ

「音楽で紐解く小澤征爾(中編)」は、ここまで。
次回は最終回。知っているようで知らない小澤征爾の秘話。

というわけで、またお会いする日までお元気で。

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オーディオ買取屋のある松本市は、「3ガク都」として知られています。学問・山岳・音楽。この3つの「ガク」がその言われです。

その中でも、特に音楽の「楽都」としては非常に高い知名度を誇ります。そうです。毎年夏になると、あの「セイジオザワフェスティバル」(旧サイトウキネンフェスティバル)が開催され、世界的に評価の高い日本人指揮者が松本にやってくるからです。

小澤征爾。

その名を聞けば、おそらく多くの方が「天才」というワードを思い浮かべることでしょう。確かに小澤征爾は天才です。いくつもの賞を受賞しており、先日(平成28年10月3日)も東京都の名誉都民に選ばれたばかりです。

が、そんな天才・小澤征爾にも、少なからず苦労はありました。本当は指揮者を志していなかったかもしれないし、NHKとも色々あったと言われています。そこで今回は、その輝かしい受賞歴とその裏側の秘話を三回に分けてご紹介いたします。

  1. 若かりし頃の小澤征爾
    1-1.ピアノとの出会い
    1-2.クラッシックとの出会い
    1-3.学生・小澤征爾
  2. 海を渡った小澤征爾
    2-1.始まり
    2-2.二人の先生
  3. アメリカでの活躍
    3-1.クーセヴィツキー賞
    3-2.ラヴィニア音楽祭
  4. まとめ

 

1.若かりし頃の小澤征爾

1-1.ピアノとの出会い

小澤征爾は1935年9月1日、満洲国奉天市(中国瀋陽市)で生まれます。そして6歳までその土地で暮らしますが、1941年3月、母や兄と日本に戻り、東京都立川市の若草幼稚園に入園します。

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1942年4月、小澤征爾は立川国民学校(現・立川市立第一小学校)に入学し、あるとき長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けます。が、これが一家に大きな衝撃を与えます。家族全員、小澤征爾の音楽に対する才能を感じずにはいられなかったのです。そこですぐ、本格的なピアノのレッスンを始めさせるべく、父親が方々ツテを探し、横浜市白楽の親類から3千円でアップライトピアノを譲ってもらいます。が、当時の小澤家にとって3千円は大金でした。そこで小澤征爾の父親は、自分が愛用していたカメラ「ライカ」を売ってお金を何とか工面します。さらに、そのピアノの運送についても逸話があります。なんと父親と長兄と次兄の三人がピアノをリアカーに縛りつけ、3日かけて横浜から立川市の自宅まで運搬したそうなのです。

それが1945年のこと。小澤征爾は戦争の終わりの年に、初めて自宅でピアノを触るのです。そして翌年(小澤征爾小学5年生)、初めて人前でピアノを演奏。曲はベートベン「エリーゼのために」でした。

1-2.クラッシックとの出会い

ちょうどその頃、小澤征爾はクラッシック音楽にも触れるようになります。次兄の同級生に鈴木次郎というレコードマニアがいて、小澤征爾はその人の家で頻繁にレコードを聴きます。バリトンのゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルトの「冬の旅」、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」。多くの名曲をレコードで聴き、そうやって1曲1曲、うんと空気を吸い込むようにして、小澤征爾は音楽を体に染み込ませます。

1-3.学生・小澤征爾

1947年、小澤征爾の父親がミシンの会社を起こしたことをきっかけに、一家は神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)に転居します。そしてその翌年の1948年に、成城学園中学校に入学。ラグビー部に所属する一方、豊増昇にピアノを習います。当時は小田急小田原線で「新松田」から「成城学園前」まで、小澤征爾は片道2時間かけて通学していたそうです。

1951年には、小澤征爾は一旦は成城学園高校に進学しますが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学することとなります。(桐朋女子高校音楽科は、齋藤の肝煎りで設立された学科で、同門には秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子らがいます)

そして小澤征爾20歳の1955年には、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学し、1957年夏に同短期大学を卒業。その年には群馬交響楽団で振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当します。
さらに1957年12月、小澤征爾は日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル「子供と魔法」にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめます。

国内でここまで認められていた小澤征爾ですが、1958年のフランス政府給費留学生の試験では、残念ながら合格することはできませんでした。それでも、成城学園時代の同級生の父・水野成夫たちの援助で渡欧資金が調達できると(支援金は1200ドル。日本円で約45万円にものぼったと言われています)、1959年2月1日、スクーターとギターとともに貨物船で単身渡仏。
こうして海を渡った小澤征爾は、そこから様々な賞をいくつも受賞するのです。

 

2.海を渡った小澤征爾

2-1.始まり

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まずは渡欧した1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、つづいてカラヤン指揮者コンクールでも優勝します。

ブザンソン国際指揮者コンクールは1951年に創設され、例年9月中旬に2週間かけて開かれる世界的に有名なコンクールです(創設以降1992年までは毎年行われていましたが、その翌年からは隔年開催となりました)。指揮部門と作曲部門があり、日本ではそれぞれ独立させて「ブザンソン国際指揮者コンクール」、「ブザンソン国際作曲コンクール」などと表記します。予選の応募資格は「35歳までという年齢制限」があるのみで、書類選考はありません。ただ、「ブザンソン国際指揮者コンクール」について言えば、世界では「指揮者の登竜門」と認識されています。小澤征爾が受賞してからも、松尾葉子,佐渡裕,沼尻竜典,阪哲朗,下野竜也,山田和樹、垣内悠希が優勝し、誰もが世界的指揮者として活躍されています。

カラヤン指揮者コンクールは、その名の通り名指揮者と名高いカラヤンが弟子をとるために開いたコンクールです。小澤征爾が受けたときは50人ほどの応募者がいたのですが、小澤征爾は見事合格。晴れてカラヤンに師事することとなります。

が、こうして小澤征爾はカラヤンに弟子入りするわけですが、一方でバーンスタインにも師事します。これは本当にすごいことでした。というより、当時では考えられないことでした。

2-2.二人の先生

カラヤン(ヘルベルト・フォン・カラヤン:Herbert von Karajan、1908年4月5日-1989年7月16日)は、カール・ベーム(1894-1981)と並び称される20世紀を代表する指揮者です。1955年より三十年以上に渡りベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督なども兼任。また、残した録音の数は膨大で、映像として音楽を残すという新しい形態を定着させ、日本では「楽壇の帝王」と称される人物です。

ただ、カラヤンはバーンスタインとは非常に不仲でした。
バーンスタイン(レナード・バーンスタイン:Leonard Bernstein、1918年8月25日 – 1990年10月14日)は、史上最高のマーラー指揮者と言われている人物です。しかし、カラヤンはそんなバーンスタインの、ベルリンフィルへの客演を徹底的に妨害したと言われています。「ヨーロッパではカラヤン、アメリカではバーンスタイン」と言われている時代だったから、互いに強いライバル心を持っていたのでしょう。

とにかく、そんな不仲の二人が、同時に小澤征爾を可愛がったというから驚きです。

後に、小澤征爾はこう語っています。
「タングルウッドの直後にベルリンでカラヤン先生の弟子になるコンクールに通って、すぐ後にニューヨーク・フィルでバーンスタインの副指揮者にならないかという誘いがきました。恐る恐るカラヤン先生に、ニューヨーク・フィルの件を切り出すと、意外にも『セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい』と温かく送り出され……」

いずれにせよ、小澤征爾はこうして二人の天才指揮者(しかも不仲)に師事するのです。そしてこの二人との親交は生涯にわたり築かれたと言われています。

 

3.アメリカでの活躍

3-1.クーセヴィツキー賞

1960年、小澤征爾はアメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞します。

バークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)は、世界的に有名な音楽祭です。セイジオザワフェスティバルの総鑑賞者が8万人強であるのに対し、タングルウッド音楽祭は期間中の観客数が35万人にのぼることを思えば、いかほどの音楽祭かは想像ができると思います。

そして1961年、ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任すると、同年にはニューヨークフィルの来日公演にも同行。さらに1964年には、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。小澤征爾は急遽、音楽監督として就任します。

3-2.ラヴィニア音楽祭

ラヴィニア音楽祭は、アメリカで最も歴史のある野外音楽祭です。「ラヴィニア」という愛称だけでシカゴの人々に通じるこのコンサート劇場は、100年以上も昔から世界中の人々の憩いの場所になっています。シカゴ交響楽団の夏季のベース・コンサートホールでありつつ、同時にジャズ、オペラ、ポップからバレーまでと、幅の広いコンサートの場であり、毎年100以上にのぼる多彩な演劇が企画されます。過去にはルイ・アームストロング(Louis Armstrong)やレナード・バーンステイン(Leonard Bernstein)、ジャニス・ジョップリン(Janis Joplin)やルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti)など、それぞれがそれぞれの分野で名声をあげた人々が絶えずこのステージで公演してきました。

小澤征爾がそんな歴史ある音楽祭の音楽監督を引き受けたのは、1964年の音楽祭の、まさに2日後にはシカゴで練習が始まるタイミングでした。依頼があった曲目は、グリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。さらに、あまりに急な話だったこともあって、手元に楽譜もない状態でした。そこで急遽バーンスタインのスタジオに駆け込み、不在のバーンスタインに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらうと、楽譜棚からスコアを借りてしゃかりきに勉強します。

そうして、何とか無事に音楽会を終えるわけですが(というより、大成功を収める訳ですが)、その後に開かれた盛大なパーティーで、ラヴィニア音楽祭の会長「アール・ラドキン」が小澤征爾にこう言います。「君にこの音楽祭をあげよう」。しかし、当時の小澤征爾はまったく外国語が理解できませんでした。そのため、マネージャーのロナルド・ウィルフォードは、小澤征爾が監督就任の記者発表間近になってもアメリカに戻ってこないため、不安になって電話をします。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるからすぐ戻って来い」。それで小澤征爾は驚きます。そうです。彼はそこで初めて、自分がラヴィニア音楽祭の音楽監督を務めることを認識するのです。そしてその年から1969年まで、小澤征爾はラヴィニアで毎夏指揮します。

ただ、一方では(主に地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」などからは)、小澤征爾は徹底的に批判されました。「ラドキンはなぜこんな奴を雇ったのか」「シカゴ交響楽団のような偉大なオーケストラが、なぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあったほどです。

これに音楽的抗議をしたのが、シカゴ交響楽団でした。

その夏の、最後の音楽会のことでした。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で小澤征爾は呼び戻されます。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器も、めちゃくちゃな音を鳴らし始めました。

「シャワー」でした。

小澤征爾はこう語っています。「シャワーを経験したのは生涯で後にも先にもその1度きり。そして、後々に分かったことなのだが、あのシャワーはシカゴ・トリビューンへの抗議を込めたものだったらしい」と。小澤征爾は、急な代役であったにもかかわらず音楽祭を成功させ、シカゴ交響楽団がめいっぱい味方してくれる程の信頼関係を築いていたのでした。

ちなみに、そのシカゴ交響楽団とはRCAレーベルやEMIレーベルに複数の録音を残します。これは非常に画期的なことでした。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮し、国際的な一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外マーケット向けに複数発売することなどまるで前例がなかったからです。

 

4.まとめ

「音楽で紐解く小澤征爾(前編)」は、ここまで。
次回はいよいよ実績も築き始め、「世界の小澤征爾」となる話です。

では、近々「音楽で紐解く小澤征爾(中編)」でお会いしましょう!

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オーディオ買取屋のある長野県松本市では、毎年セイジオザワフェスティバルが行われます。

そして、その総監督である小沢征爾が、平成28年10月3日、東京都の名誉都民に選出され、都庁で行われた名誉都民顕彰式に招かれました。受賞者は、昨年のノーベル生理学・医学賞受賞者で北里大特別栄誉教授の大村智や、1964年の東京五輪、68年のメキシコ五輪の重量挙げ金メダリストで東京都ウエイトリフティング協会会長の三宅義信。

そこで今回はこの栄誉を記念して、小澤征爾の家族や家系について調べてみました。

  1. 両親
  2. 兄弟
  3. 結婚
    初婚
    再婚
  4. 子供
  5. 師・齋藤秀雄との関係
  6. まとめ

 

1.両親

小澤征爾の父は山梨県出身、東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒で、歯科医院を開業していた小澤開作です。政治運動にものめり込んでいて、満州国協和会創設者の一人で民族主義者でした。満州事変の首謀者となった陸軍大将の板垣征四郎と、帝国陸軍の異端児と呼ばれた石原莞爾は同志で、「征爾」は彼ら二人の名前から一字ずつもらったものと言われています。

一方、母・さくらは仙台出身のクリスチャンで、日本や中国の政治関係者や教会関係者がよく遊びに来るにぎやかな家で育ちました。子供たちに小さい頃から賛美歌を歌わせていたことも、おそらく育った環境が関係あるのでしょう。

 

2.兄弟

小澤征爾は四人兄弟の三男です。長男・克己は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、四男・幹雄は俳優と、兄弟全員が文化的活動をされています。

一方で、小澤家は経済界とも関わりを持つ一家です。
次男・俊夫は下河辺牧場の創業者・下河辺孫一の次女・牧子と結婚し、経済界の名門家系である下河辺家と閨閥で繋がっています。

下河辺家といえば、下河辺孫一の父・下河辺建二は日本鉱業(現・ジャパンエナジー)の社長や日産農林工業(現・兼松日産農林)の会長等を歴任した実業家で、牧子の叔父・下河辺三史は日製産業(現・日立ハイテクノロジーズ)の社長を務めたことで有名です。なお、下河辺三史は元首相・芦田均の娘婿です。そのため、小澤家は下河辺家を通じて芦田家と姻戚関係で結ばれているといえるので、政界にも血筋を持つ一家となります。

 

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ところで、次男・俊夫と牧子夫妻は2男をもうけ、その次男はミュージシャンの小沢健二です。
小沢健二は1988年に東大文Ⅲに入学。それと同時に中学時代テニス部で一緒だったコーネリアスこと小山田圭吾から誘われ、ロリポップ・ソニックに参加。そして1989年8月にフリッパーズ・ギターとしてデビューし、全作英語詞という当時の邦楽シーンでは異例のアルバムにも関わらず、30万枚の売り上げ枚数を記録します。

その後フリッパーズ・ギターは解散し、小沢健二はヒップホップ・グループのスチャダラパーと共演するのですが、1994年には「今夜はブギー・バック」が50万枚を超える大ヒット。これにより日本でのラップ・ミュージックやヒップホップのポピュラー化を促すこととなり、小沢健二自身も2年連続の紅白出場を果たします。

1998年『知ってるつもり?!』(淡谷のり子特集)にコメンテーターとして出演して以降、2014年まで16年間テレビ出演はありませんでしたが、2014年に「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出演。ボーダーシャツがあまりに似合っていたことから、「奇跡の40代」と話題になりました。

 

3.結婚

3-1.初婚

さて、小澤征爾は二度結婚しています。
初婚は1962年、相手は三井不動産社長・江戸英雄の娘で、ピアニストの江戸京子。互いに桐朋女子高校の第1期生同士でした。交際当初は、江戸英雄は娘の気の強さと強烈な個性を理由に小澤征爾との交際に反対していましたが、小澤征爾が江戸家に入りびたっていたこともあり、結局、江戸英雄は二人の仲を認めざるを得なくなり、月20万円(一説では50万円)もの援助をすることとなります。

しかし、二人は四年後に離婚。原因はまことしやかに二つの事柄がささやかれています。

一つが、婚姻中、練習で疲れて帰ってくる小澤征爾が「もう音はもう聴きたくない」と言って、元妻・江戸京子のピアノの練習を拒絶したこと。
もう一つが、当時の小澤征爾はカラヤン指揮者コンクール優勝などを経て「世界の小澤征爾」としてスターと化しており、銀座のバーの女性やモデル・入江美樹との噂が絶えなくなったことです。

ひょっとすると、あるいはその両方が原因かもしれませんが、いずれにせよ二人は離婚。そして小澤征爾は離婚後の1968年、白系ロシア人貴族のハーフでモデルの入江美樹と再婚します。
3-2.再婚

入江美樹はロシアと日本人のハーフ(父親がロシア人のヴィタリー・ペトロヴィチ・イリーン、母親が日本人の料理研究家・入江麻木)で、本名はヴィラ・ヴィダリエヴナ・イリーナ。1968年、小澤征爾との結婚以降は小澤ヴェラと名乗ります。職業はファッションモデル兼デザイナー。彼女の手掛けたブランドはレディスブランド「ザ・ギンザ・バイ・ミズ・ヴェラ」。

高校時代に母親がファッション雑誌「装苑」のモデル募集に応募して1位に選ばれモデルデビュー。その後、第1回国際ファッション大会で1位入賞、日本テレビ系『シャボン玉ホリデー』にマスコットガールとして出演を果たすと、第16回NHK紅白歌合戦の審査委員にも抜擢されます。また、女優としても活躍しており、1966年には勅使河原宏監督の映画『他人の顔』に出演します。

そんな美人と再婚した小澤征爾ですが、当時の世評は「美女と野獣婚」。

これにはセイジオザワフェスティバルが開催される松本市民として怒りを覚える次第ですが、「美女と野獣」の野獣は、魔法がかかった仮の姿。本来はスマートな王子であることを鑑みれば、まあ悪い表現ではないのかもしれません。

二人の結婚生活は今も続いており、二人の子宝に恵まれます。

そして、これは全くの余談ですが、歌手の吉田拓郎は入江美樹の大ファンだったことから「入江剣」というペンネームを名乗っています(実際、酒井法子へ「幸福なんてほしくない」を提供しています)。

 

4.子供

小澤征爾には2人の子供がいます。
1971年誕生の長女・小澤征良(せいら)と、1974年誕生の長男・小澤征悦(ゆきよし)です。

長女の小澤征良は12月29日生まれで、出身地はサンフランシスコ。
Seiraという名前は、父の名のSeijiと母の名のVeraを継ぎ足して命名されたそうです。メトロポリタン歌劇場で演出を学んだり、日本ではテレビ番組のリポーターを務めたり、最近ではエッセイストとしての活躍が顕著です。

2002年出版の「終わらない夏」はベストセラーとなりとても話題になりましたが、「往復書簡 いま、どこですか?」は、親友である杏と共同で書いたエッセーで、北海道を旅したときの手紙です。

一方、長男の小澤征悦は9月6日生まれで、出身地はカリフォルニア州。
テレビ・映画・舞台と幅広い活動をこなす俳優です。ドラマ「ハンチョウ~警視庁安積班~」や映画「脳男」でご覧になった方も多いのではないでしょうか。

身長は183センチあり、小澤征爾と同じくモテ男として有名で、姉・小澤征良の親友の杏やMISIAとの2股疑惑、滝川クリステルとの交際&破局などは記憶に新しいことでしょう。
また、気質も父・小澤征爾と似ているらしく、二人はまるで親友のような関係とも言われています。

二人は小澤征爾の子供ですが、小澤征爾の父・開作から見れば、小沢健二とともに孫にあたります。つまり、小澤征爾は小沢健二の叔父、小澤征良と小澤征悦は従兄弟となります。

 

5.齋藤秀雄との関係

サイトウ・キネン・オーケストラは1984年、恩師である齋藤秀雄の10周忌にあたり、小澤征爾と、同じく斎藤秀雄の門下生で指揮者の秋山和慶の呼びかけにより、桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ演奏会を開催したことから始まります。世界各地で活躍する齋藤の教え子たちが集まっての演奏でしたが、設立当初は無給出演でした。

それほどまで小澤征爾は斎藤秀雄を慕っていたのですが、齋藤もまた小澤征爾を随分可愛がっていたようです。というのも、高校時代の小澤征爾は、齋藤秀雄から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたらしいのですが、ある日のことです。あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我したそうなのです。

いずれにせよ、深い師弟関係にあったことは間違いないのですが、実は二人は遠戚関係にもありました。

小澤征爾の母・小澤さくらは若松孝太と春代の娘で、春代は大津義一郎となおの娘、大津義一郎は大津隆三郎の息子です。
一方、大津隆三郎の娘・久は前島美孝と結婚して娘・とらを生み、彼女は英語学者・齋藤秀三郎と結婚して齋藤秀雄を生みます。

二人はまったくの赤の他人ではなかったのです。
参考:http://kingendaikeizu.net/ozawaseizi.htm

 

6.まとめ

さすが世界の小澤征爾です。
血縁者は政界から経済界へと幅広く、その一族は華々しい。兄弟も皆文化人として活躍され、自分の子供二人もまた、華やかな場で活躍されています。そして驚きなのが、師事していた斎藤秀雄と遠戚だったことです。これを知った時、小澤征爾はどんな心境だったのでしょうか。

しかし、そこまでの一族であり、大スターである小澤征爾ですが、その地位に至るまでに何の苦労もなかったのかといえば、どうやらそうではないようです。
名立たるコンクールで優勝を収めた後、師事していたバーンスタインと共に凱旋帰国した際の小澤征爾は、すでに国内ではスターでした。しかしそんなスターでも、小澤征爾は自分が指揮する楽曲の譜面も買えないほど経済的に困窮していたそうです。音楽の道とはそれほどまでに険しいものなのです。

そこで次回は、セイジオザワ・フェスティバルの開催地であり、オーディオ買取屋のある松本市から、小澤征爾の歩みと受賞歴をお届けします。
また近い日におめにかかります。
それまで皆様お元気で。