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TANNOY(タンノイ) 〜守り続ける美学、至高の響き〜(後編)

1940年代後半から1950年代前半にかけて、ファウンテンは以下の領域におけるプロジェクト実行に心が駆り立てられる。

①大音量が放射できる音響装置
②特殊産業における通信装置
③非常に高品質なスピーカー

もちろん、ファウンテンはこれらの全てに成果を残す。
しかし、今日ここでは、わたしたちは③の項目を軸に、戦後のタンノイの歴史を一緒に紐解いていきたい。
思想を明確に表現し、数々のユニークな製品をこの世に生み出した「タンノイ」。
この記事により、伝統を守りつつ進化を遂げるタンノイのフィロソフィが、皆さんと再認識できれば幸せだ。

目次
1.戦争とタンノイ
2.第二次黄金時代
3.新生タンノイ
まとめ

1.戦争とタンノイ

1-1.第二次世界大戦とタンノイ

1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは自国の経済活動のすべてをこの戦争に集中させた。タンノイ社もその例に埋もれず、生産設備の全ては国防計画に振り向けられた。飛行場の警報装置、戦車や潜水艦内での緊急通報装置、砲兵隊の指揮伝達通信機、軍需工場内で使われる通報装置、等々の生産である。

しかし、1945年に終戦を迎えると、タンノイ社はすぐさま再生装置や通信機器の製造を再開し、新時代へ向けての研究開発を始める。

一方で、この頃からタンノイ社の製品品目の一つに、会議場内でのコミュニケーション機器や通訳装置が加えられる。実際、戦後の国際協力関係の進展に伴い、タンノイは世界の代表的な会議設備の多くを手がけている。国際連合の臨時本部となったパリの会議場、ジュネーブの国際連盟跡の会議場、ニューヨークの国連本部ビルなどはその納入先の一例だ。
そして、それ以後、タンノイは国際会議での通訳装置、音響装置の供給において世界でも有数のメーカーとして活躍し、重要な国際会議場にタンノイの装置を取り付けていない国はない、とまで言われるほどになる。

1-2.タンノイの代名詞「デュアル・コンセントリック」誕生

タンノイは第二次世界大戦を経て、軍のPAシステムや通信機器の優秀性によりその名をより高めたが、1947年、さらにその名は広く知れ渡る。ロナルド・H・ラッカムらと、今なお基本構造が変わらないあのユニット「デュアル・コンセントリック(通称「モニター・ブラック」)」の開発に成功するのである。
これは米国アルテック社が開発した同軸2ウェイ604にヒントを得て、自社製マイクロフォン開発の校正用音源として試作されたのが始まりと言われている。
高域はコンプレッションドライバーによるホーン型、低域はコーン型ダイレクトラジエーターとして、この二つを同軸上に一体構造とさせながら、シングル・マグネットに二つのギャップを刻み込んだユニークな設計だった。

こうしてタンノイの代名詞「デュアル・コンセントリック」は誕生し、その構造は今日まで脈々と受け継がれているのである。

1-3.デッカとの出会い

デュアル・コンセントリックが発表された1947年の9月、ロンドンにて第二次世界大戦後初となるオーディオショーオリンピア・ロンドン展」が開催された。ここでデュアル・コンセントリックは非常に注目を浴びることになるのだが、偶然にも、タンノイのブースの前にはデッカのブースがあった。そして、これがタンノイの大きな転換期へとつながる。
デッカは、既にSPレコードで広域の限界再生周波数を従来の8kHzから14kHzにまで伸張することに成功していた。しかし、肝心の14kHzまでの再生能力を持つスピーカーを手にすることができていなかった。
そこでタンノイのデュアル・コンセントリックに白羽の矢が立っのだが、このデュアル・コンセントリックはデッカの一般市販用の製品「デコラ」への採用が決まると、次いでデッカの録音スタジオモニターとしても採用されていく。

こうして家庭用・モニター業務用という二つの異なった分野でデュアル・コンセントリックは活躍を始めるのだが、このデッカとの出会いは、ユニットの将来を方向付け、タンノイに幅広い活動を約束するものとなった。

2.第二次黄金時代

2-1.オートグラフ誕生の背景

LPレコード発売の1948年前後を契機に、世界中のオーディオメーカー各社から新しい豪華な家庭用スピーカーシステムの発表が相次ぐ。
また、FM放送が開始された1950年代に入ると、家庭でのハイクオリティな音楽再生熱に拍車がかかった。
そうした中、タンノイもモニター・ブラック発表後間もなく、「デュアル・コンセントリック・ラウドスピーカーシステム」と称するバスレフ式のコーナー型システムを作る。
が、これは評価が得られなかった。このため、すでに人気になりつつあったヴァイタボックスの「CN191」やエレクトロボイスの「ザ・パトリシアン」などに対抗するものとして企画されたのが、オーディオ史上屈指の名器「オートグラフ(Autograph)」である。
創業者ガイ・ルパート・ファウンテン自らがオートグラフ(自筆サイン)を刻み、その名をモデル名としたことがその名の由来だ。

発表されたのは1953年、米国ニューヨークのオーディオ・フェアでのことだった。

2-2.第二次黄金時代

1953年、タンノイはオートグラフを発表すると、それからは後に名器と呼ばれる新作を次々と発表する。
1954年には「ヨーク」「ランズダウン」、1955年には創業者のイニシャルをとった「GRF」である。
この頃から、タンノイは本格的に北米大陸のマーケットに進出する。
1953年には、ハイファイスピーカーの販売とPAシステムのレンタル及び補修を業務活動とする「タンノイ・カナダ」を設立。
1954年には、ハイファイスピーカーの販売と米国市場にあったデザインシステム製造を狙い、「タンノイ・アメリカ」を設立。

特にタンノイ・アメリカでは、イギリス本国の少品種の製品構成とは大きく異なり、当時のアメリカニーズに沿った様々なバリエーションモデルが豊富にラインナップされていた。

3.新生タンノイ

3-1.運命の1974年

オートグラフを筆頭とした商業的成功に支えられ、名門タンノイは順調に経営を推移させていく。しかし、1974年、自体は突如急変する。
まずは、コーン・アッセンブリー工場の火災である。
これにより、自社にてユニットエンクロージャーの生産が不可能となる。
そして、ほぼ時を同じくして、ファウンテンが引退を決意する。

1926年に会社を創立して以来、48年間に渡りタンノイ社を牽引してきたファウンテンも、このときすでに74歳。さらに二回の心臓発作を起こしており、満身創痍の状態だった。
こうした経緯を経て、ファウンテンはタンノイ社の将来の発展を考慮に入れ、最終的な決断を下す。
それは、当時すでに世界的な規模で活躍していた音響多国籍企業「ハーマン・インターナショナル社」へのタンノイ社売却だった。

3-2.死別

1974年、タンノイ社は、ハーマン・カードン、オルトフォン、JBLなどを傘下に従えていたハーマン・インターナショナルの一員となり、いわゆるアルファベットシリーズの「アーデン」「バークレイ」「チェビオット」「デボン」「イートン」などを発売する。

一方、ハーマン・インターナショナル社の社長ハーマンは、タンノイとの協議の際、タンノイ全社員の受け入れと、製品コンセプトは変更しない旨を約束していた。その上で、今後の技術革新にタンノイ社が対応すべく、タンノイには新たな資本が投入されることとなった。これにより研究開発部と管理部門の二つの工場が建てられ、1977年発表「バッキンガム」や「ウィンザー」、1978年発表の「メイフェア」から「オックスフォード」までの新しいラインなど、次々にタンノイの血を受け継いだ新製品が発表された。
しかし、製品が量産合理化の傾向を強めたことは確かであり、旧タンノイのスタッフはそれに不満を募らせていた。
そんな中でのことだった。

1977年12月、タンノイの創始者ガイ・ルパート・ファウンテンは軽い病気にかかった後、永遠の眠りにつく。享年77歳だった。

3-3.新生タンノイ

ファウンテンの葬儀には、ともに50年近く働いた数人の従業員を始め、最近タンノイ社の社員となった若者までが参列した。
彼らは「ガイ・ルパート・ファウンテン」の意思をより継承した製品づくりを実現したく、1981年、N.Jクロッカー社長やT.B.リビングソトンらはハーマン・インターナショナルから株を買い戻し、新生タンノイとしてタンノイを再スタートさせる。

そして、同1981年にオートグラフの流れを受け継ぐ容姿を誇る「GRFメモリー」、翌1982年にはロンドン伝統の地名を冠した「ウェストミンスター」と「エジンバラ」、1983年には「スターリング」と、15、12、10インチ口径のデュアル・コンセントリックを巧みに使いこなした新生タンノイの面目躍如たる製品をたて続けに発表。さらに1996年には、タンノイ70年の技術と伝統を結集した4ウェイの弩級システム「キングダム」を発売する。

現在まで、必ずしも順調に経営が推移してきたわけではない英国名門のタンノイ。

それでも、こうして伝統を守りつつ進化を遂げ、タンノイは今も健在しているのである。

まとめ

人によっては、ハーマン・インターナショナルの傘下にあった1974年から1981年の間を、「タンノイ暗黒時代」と言う。
「もし、あのままアメリカ企業の傘下にあったら、今の高いブランドイメージはなかったかもしれない」。そんな風に言う人もいる。
しかし、もしハーマン・インターナショナルがあのタイミングでタンノイを傘下に収めていなかったら、現代にタンノイという企業はなくなっていたかもしれない。

1974年という年は、ファウンテンが引退を決意した年であり、コーン・アッセンブリー工場が火災に見舞われた年である。

わたしは、ファウンテンがタンノイの将来を見据えてハーマン・インターナショナルに会社を売却した判断は正しかったと思うし、N.Jクロッカーを中心とするタンノイのスタッフが、ハーマンから株を買い戻したことも正しかったと思う。
要するに、わたしはガイ・ルパート・ファウンテンがタンノイを誕生させたその瞬間から今に至るまで、(もちろん1974年から1981年の8年間も含め)どの1秒を切り取っても、タンノイのフィロソフィに敬意を払うし、これからもタンノイのサウンドを愛し続けていく。

いかなるときも、一貫した主張の歴史と伝統を堅持したタンノイ。

これからも、わたしたちの心を振るわす音を期待したい。

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