TANNOY(タンノイ)の歴史 〜守り続ける美学、至高の響き〜(前編)

英国の老舗スピーカーメーカー「TANNOY(タンノイ)」。

現在、本社はスコットランドのノース・ラナークシャーコートブリッジにあるが、創業は1926年、ガイ・ルパート・ファウンテン(Gay Rupert Fountain)により、英国ロンドンのウエスト・ノーウッドに設立された。
タンノイと言えば、日本のオーディオファンにとってはJBLと並びスピーカーシステムの頂点に君臨するブランドだ。そして、数多くの人間を虜にしたブランドとしても有名で、芥川賞受賞作家「五味康祐」はその最も有名なうちの一人だろう。

一貫した美学と誇りを堅持し、神格化された存在にすらなっていった「タンノイ」。
今日わたしたちは、そんな英国のスピーカーブランド「タンノイ」の、戦前の歴史について一緒に振り返りたい。

目次
1.ファウンテンの青年期
2.タンノイ誕生
3.黄金時代
まとめ

1.ファウンテンの青年期

1-1.ガイ・ルパート・ファウンテン

ガイ・ルパート・ファウンテンは、タンノイの創業者である。

彼は19世紀最後の年の1900年、ヨークシャー地方リーズ近郊で生まれた。リーズは、今でこそ金融経済の中核をなす都市として発展を遂げ、「北の首都」と称されるに至っているが、当時は羊毛産業を中心とする工業都市だった。
彼はグラマースクール(日本で言う中学校)までをその土地で過ごした。卒業後は航空部隊(英国空軍の前身)へ入隊予定だったが、第一次世界大戦は1918年に集結した。そこで、彼は将来を求め、何のあてもなかったがロンドンへ向かった。

1920年、ガイ・ルパート・ファウンテン、二十歳のことだった。

1-2.ランカスター自動車会社

まず、ファウンテンはロンドン南東のウェスト・ノーウッドに生活拠点を置いた。そして、彫板作りを専門とする会社で働き始める。
が、自動車技術に強い興味を抱いていた彼は、数人の友人とともに「ランカスター自動車会社」を設立する。この会社は、当時では一般的だった受注生産方式をとり、車台(シャシー)に車体を架装するコーチワークを主にしていた。

1-3.電子技術への関心

1920代中頃になると、ファウンテンは電子機器に関心を抱くようになる。
この頃と言えば、ちょうどラジオやトーキーと言った、当時の最新技術を駆使して提供される娯楽に世間が注目していた。また、この産業を開拓しようとパイオニア達はやっきになっていた。
ファウンテンもそうした将来性に魅せられた一人であり、この産業に大きく魅了されていく。

当時の電子機器が直面していた問題は、真空管のヒーター用電圧やプレート電圧を提供する電源部にあった。整流器というものがなく、すべてをバッタリーに頼っていた。
しかし、鉛酸バッテリーは価格も高く、かさばり、その上頻繁に充電しなければならなかった。一方、レクラニシェタイプの乾電池も、高価で寿命が短いという欠点があった。
この問題は業務用ならまだしも、例えば家庭用ラジオにおいては解決は急務であった。
そこで、ファウンテンは交流電源から直流の電源をとる方法を考え始めるのである。

2.タンノイ誕生

2-1.整流器の完成

ファウンテンはグラマースクールまでしか学校を出ていなかった。また、彼は天才でも理論家でも発明家でもなかった。職人だった。彼の物理と化学の知識は基礎的なもののみであり、優れた整流器を考案し製造するには相当な試練があったと思われる。
しかし、彼は試行錯誤の末、とうとう家庭で簡単に取り扱うことができる上、十分信頼できる電解整流器を完成させる。
この整流器の完成により、1926年、ファウンテンはその製造のための会社「タルスメア・マニュファクチャリング社」を設立する。26歳の時である。

2-2.タルスメア・マニュファクチャリング社

ファウンテンは、ロンドンのウェスト・ノーウッドにあるTulsemere・Road(タルスメア・ロード)に面したガレージの二階に工場を置き、この整流器の製造を開始した。と同時に、励磁型ダイナミックスピーカーの開発にも取り組み始める。
この事業は順調に拡大し、1930年にはスピーカとアンプの仕事が大いに発展したこともあり、工場をもっと大きな場所へと移動する。
といっても、ここもガレージの二階である。つまり、タルスメア・マニュファクチャイング社は、ガレージの2階から、それよりもちょっと大きいガレージの2階へ引っ越したというわけである。
自動車づくりから始まったファウンテン。彼はよほどガレージが好きだったに違いない。

2-3.ネーミング

1932年、ファウンテンは社名を自分の名前と同じ「ガイ・R・ファウンテン社」に変更し、「タンノイ」の商標を登録する。
タンノイの由来は、当時の主力製品であった電解整流器の金属電極材料「タンタル(Tantalum)」と「鉛合金(lead alloy)」を結びつけた造語である。
したがって、音とは全く関係がなく、創業者の名前とも無関係という珍しいブランド名といえる。
また、整流器を製造するために設立した「タルスメア・マニュファクチャリング社」も、その名前の由来はユニークだ。

タルスメア・マニュファクチャリング社は、ロンドンのウェスト・ノーウッドにあるTulsemere・Road(タルスメア・ロード)に面したガレージの二階に工場を置いていた。
そう。およそこの社名は、工場が面していた道路が由来なのである。

3.黄金時代

3-1.飛躍

1933年、タンノイ社は2ウェイスピーカーを作り出す。
このスピーカーにはウーファーとトゥイーターそれぞれにレベルコントロールがあり(この年に製造されたスピーカーのウーファーは、米国マグナボックス社製である。タンノイ独自のウーファーで生産に入ったのは1936年以降)、さらにトゥイーターには周波数補正用の回路を持たせるなど、その考え方は現在の製品に匹敵するものだった。

そして1934年には、タンノイ社は高性能・高品質のマイクロフォンやスピーカーを設計し、その製品ラインを整えていた。同時に、10Wから200Wのパワーアンプも揃えるに至る。
さらに、独自の工場を建設し、タンノイは創立10年もしないうちに、その高い技術で欧州のオーディオ業界のリーダー的存在となっていた。

3-2.ガレージとの別れ

1934年、自社工場建設により、ガレージに別れを告げたファウンテンとタンノイ社。
この年から第二次世界大戦が勃発する1939年の数年間は、タンノイ社の第一次黄金期といってもいいだろう。
この時期のタンノイ社による高出力・高品質の音響機器や中継機の完成は、当時の社会活動・経済活動に非常に大きな影響を与えた。音楽はより多くの人間を楽しませるようになり、政治家や社会的リーダーの声は、パブリックアドレス装置を通して、ごく一般の大衆も触れられるようになった。

一方、野外のスポーツゲームでも、観戦者はゲームを一層親密に楽しめるようになり、駅などの公共機関に設置された音響装置は、多くの人間に正確な指示を与えられるようになった。
また、経済界においても、急速に進展する産業界の情報が簡単かつ確実に伝わるようになっていった。
タンノイ社は、こうした情報革命の先端に活動範囲を置き、常に自社製品とその生産技術の開発に注力した。
この経験と知識の積み上げこそ、今日のタンノイの基盤を作り上げていることは間違いないだろう。

まとめ

若かりし頃のファウンテンを語る上で、まず特筆すべきは工場の場所だろう。
1926年、ファウンテン社を創立したのはレンガ造りの建物の、二階の貸部屋だった。
1930年、業務拡張に伴い移転したその先も、一階がガレージの二階建ての家だった。
車づくりから始まったファウンテン。彼はそういった環境がよほど好きだったに違いない。
次に特筆すべきは、ネーミングについてである。
ファウンテンほど、ユニークなネーミングセンスをもつオーディオメーカーはないだろう。
会社が面する道路の名前が社名の由来だったり、製品の材料がブランド名の由来になったり。

いずれにせよ、これだけは言い切れる。
ファウンテンには若い頃から鋭い経営感覚が備わっていた。

しばしば、JBLとタンノイは比較されるが、JBLの創設者ジェームス・B・ランシングと、タンノイの創設者ガイ・ルパート・ファウンテンを比較すると、経営才覚には明らかな違いが見えてくる。
米国と英国と、二人は場所こそ離れていたが、およそ同じ頃に自身初となる会社を設立している。

また、同じくらい音への探究心と技術力はあっただろうに、ランシングは経営不振が原因で1941年に会社を買収されてしまうが、ファウンテンは1940年代には、欧州でオーディオ業界のリーダー的存在となっていた。
人生の幕の下ろし方も二人は全く異なる……が、その話はまた別の機会にするとして、今日は、皆さんと一緒にタンノイが礎を築いた戦前の歴史が振り返れたことを幸運に思う。