日本が誇る大阪のオーディオ「ONKYO」のブランドストーリー

音響を大胆にも社名にしている「ONKYO」。
大阪に誕生した同社は、今なお本社を大阪に置いている日本のオーディオメーカーだ。

今回は終戦直後に日本に誕生した大阪が誇るオーディオメーカー「ONKYO」のブランドストーリー。

目次

  1. 社名
    1-1.「オンキョー」は誤り
    1-2.社名の変遷
  2. 創業期
    2-1.創業者・五代武
    2-2.オンキヨー独自の「ノンプレスコーン」
    2-3.オンキヨーラジオ1号機「OS-55」
  3. 名機が生まれた60年代
    3-1.東芝グループの参加に
    3-2.暮らしの手帖で大ヒット「ST-55」
    3-3.ステレオサウンドで大ヒット「E-83A」
    3-4.Scepter(セプター)ユニットシリーズ誕生
    3-5.INTEGRAシリーズ誕生
  4. 変化の70年代
    4-1.70年代年表
    4-2.「M6」
  5. 歴史的名機
    5-1.伝説の名機「GS-1」
    5-2.D77
  6. 21世紀のオンキヨー
  7. まとめ

 

1.社名

1-1.「オンキョー」は誤り

多くの人が誤解しているが、オンキヨーの表記は「オンキョー」ではない。「オンキヨー」である。そして、歴史の長い企業ではこのようなことは珍しくなく、

キヤノン株式会社
キユーピー株式会社
シヤチハタ株式会社(旧・シヤチハタ工業)
富士フイルム株式会社(旧・富士写真フイルム)

などもオンキヨー同様、拗音を小書きしない。

その理由として最も多いのが「見た目のバランス」である。一文字凹むことで不揃いに見えるからである。が、そもそも拗音や促音の小書きが一般的になったのは戦後のことである。また、法令の条文で正式に小書きが採用されたのは平成元年以降のことであり、むしろ老舗企業の社名において拗音が小書きになっていないのは普通のことである。

ちなみに、シャッター業界は異質である。

販売されているのは「シャッター」だが、社名はほとんどが「シヤッター」である。

社団法人日本シヤッター・ドア協会
三和シヤッター工業
文化シヤッター
大和シヤッター
東洋シヤッター

などがその例である。

1-2.社名の変遷

オンキヨーは数回の名称変更がある。
1946年の設立時は「有限会社大阪電気音響社」、翌年には「株式会社大阪電気音響社」へと変更、さらに翌1947年には「大阪音響株式会社」へと商号変更を経て、1971年に「オンキヨー株式会社」となった。

ロゴも2回変わっていて、最初はブロック体のシンプルで印象的なロゴだったが、1950年代に入ると筆記体のロゴになり、1977年にもう一度ロゴを一新し、現在に至っている。

2.創業期

2-1.創業者・五代武

松下電器産業(現・パナソニック)でスピーカー製造工場の工場長を務めていた五代武は、「満足できるダイナミックな国産スピーカーを自分でつくれないだろうか」と一念発起し、1946年4月、大阪に有限会社大阪電気音響社を設立する。そして、同じ年の9月には株式会社化し、社名を株式会社大阪電気音響社へと変更。さらに翌1947年には、大阪音響株式会社へと商号を改めた。

しかし、五代は設立してすぐにはスピーカーづくりに着手しなかった。まずはクリスタル・ピックアップ「CP-1000」の生産を開始した。つまり、オンキヨーブランドの第一号商品は、スピーカーではなくピックアップである。そして、その収益でスピーカーの研究を開始し、設立した年の1946年には大阪市都島区に本店・工場を新築。翌1947年にはピックアップ工場とコーン紙製造工場を、1948年には念願のスピーカー工場を完成させた。

五代がオンキヨーブランドのスピーカー第一号機を発表したのは、1948年のことである。「ED-100」がそれである。ED-100は25cmフィールド型ユニットで、価格は当時の平均価格よりも1.5倍ほどしたが、大ヒット。「感度が良く、丈夫で、いい音」という評価とともに人気を集めた。

2-2.オンキヨー独自の「ノンプレスコーン」

当時のスピーカーづくりにおいては、コーン紙は購入して組み立てるのが常識だった。しかし、オンキヨーはコーン紙の自社開発に取りくみ、1950年に「ノンプレスコーン」の開発に成功。特許を出願する。

ノンプレスコーンとは、オンキヨー独自の製作法である。プレスを行わないため適度な厚みが得られ、「軽量」「高剛性」かつ「内部ロスが大きい」という振動板に求められる3要素を高次元で調整している。

そして、この特許については1951年に認可がおり、オンキヨーは1953年、1号機「ED-100」にノンプレスコーンを採用して再発売した。これにより音のクオリティは一段と改良され、「感度が良く、丈夫で、いい音」という評価を不動のものとした。

ちなみに、オンキヨーはノンプレスコーンの特許を獲得すると、それから今に至るまでのおよそ70年間、このノンプレスコーンを使い続けている。

2-3.オンキヨーラジオ1号機「OS-55」

オンキヨーの名が一躍知られるようになったのは、1953年に発売したラジオ1号機「OS-55」がきっかけである。当時のラジオ用スピーカーは12cm、あるいは16cmが主流だったが、オンキヨーはノンプレスコーンユニットを使用した20cmスピーカーのラジオを発売。8インチハイファイスピーカーから流れる音は圧倒的に美しく、ラジオの高級モデルとして高価格ながらもたいへんな人気を博した。

さらにその2年後の1955年には、ラジオ「OS-88」を発表。ラジオで初めてプッシュプル出力回路を採用し、「ハイファイラジオ」と名付けて販売。さらに余勢を駆るように、1955年には独自の音響技術を活かしたテレビも生産を開始した。こちらも「音のいいテレビ」として成功を収めている。

3.名機が生まれた60年代

3-1.東芝グループの傘下に

1948年、最初のスピーカーを発売してからのオンキヨーは、以降、スピーカーブランドとして数々の製品を発表している。1953年には第2回全日本オーディオフェアにて、スピーカーの過渡応答性の重要性を実演で示すべく、ダブルコーン型スピーカー「PD-121」「PD-123」を発表。1956年には、コーン型ツイーターを使用した同軸型スピーカー「CX−12」「CX-10」「CX-8」の3モデルを立て続けに発表し、1956年には、特許技術として日本初のプラスチックを素材にしたスピーカー「POP CONE」を発表している。

しかし、1957年、総合電機メーカー化を目指す東京芝浦電気(現・東芝)の資本参加を受け入れ、同じくラジオ・テレビメーカーだった山中電機(テレビアン)や七欧電機(ナナオラ)と共に東芝グループ入りを果たし、オンキヨーは東芝の傘下でテレビの生産などを行なった。

大阪市城東区にはテレビ工場が完成し、当時は東芝ブランドの真空管テレビを月5万台、さらにオンキヨーブランドのテレビを1日2、300台生産。1958年にはテレビCMも放映しており「目に優しいスモークドガラス」「音の良いノンプレスコーンスピーカー」として、オンキヨーテレビをPRし、他社との差別化を図っていた。

1958年に、実際にお茶の間に流れたオンキヨーのテレビCM

3-2.暮らしの手帖で大ヒット「ST-55」

1960年代に入ると、オンキヨーは様々な分野に進出した。1961年にはトランシーバーの発売を開始し、1963年には医療機器分野にも進出。クリアな音質が特長の心音計など、音響メーカーとしての技術を活かした製品を次々と発売した。

そんなオンキヨーだったが、1966年に発表したコンサートジュニア「ST-55」によって方針が大きく変わることとなる。この商品により、オンキヨーはテレビ事業から撤退し、自信を持ってオーディオを主力商品に据えることとなるのである。

そんな「ST-55」は、卓上型セパレートステレオである。カートリッジは一般的なクリスタル型だったが16cmユニットが採用され、ドライブアンプは出力3.5W×2のオールトランジスター。そして、これが当時大人気だった家庭向け総合生活雑誌「暮しの手帖」で紹介され、オンキヨーはオーディオメーカーとして日本全国にその名を轟かせたのである。

「暮しの手帖」は終戦直後の1948年に創刊された総合雑誌で、電化製品の性能などを検証する「商品テスト」が話題を呼び、その実証のため公開テストを行って人気となった。そして、この「ST-55」が「ステレオ商品テスト」にエントリー。他にはナショナルやビクターなど7社が企画に参加し、比較されたが、その中でもダントツの評価を獲得したのである。

そして、この「ST-55」が卓上セパレートブームの火付け役となって、他社も次々と同様の製品を市場に投下することとなった。

3-3.ステレオサウンドで大ヒット「E-83A」

暮しの手帖では、聴き比べをして評価をしたのは10代から30代までの、オーディオマニアではない一般人だった。しかし1968年、今度はホーンユニット搭載のスピーカー「E-83A」がオーディオ専門誌にて紹介され、オンキヨーは一層オーディオメーカーとしての地位を確立する。

紹介した雑誌は「ステレオサウンド」。まだ創刊間もないオーディオ雑誌だったが、その試聴テストコーナーにて、3人のテスター諸氏が大絶賛。「ホーンスコーカーでこんなにクセのない音は、今までお目にかかったことがない」とまで言い切ったのである。

この「E-83A」は、発売当時、4ウェイのフロア型「E-154A」と、2ウェイ構成のブックシェルフ型「E-22A」が1つのシリーズとなっていて、そのシリーズの中級機として登場したモデルである。低域には30cmコーン型ウーファーを搭載し、中域と高域にはそれぞれホーン型ユニットを搭載。そして、エンクロージャーには密閉方式を採用。金額は41,500円。

なお、この名機はのちにシリーズ化され、オーディオファンの記憶に強く残るスピーカーとして進化することとなる。

【E-83Aの主な仕様】

方式:3ウェイ・3スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型
使用ユニット:低域用/30cmコーン型、中域用/ホーン型、高域用/ホーン型
再生周波数帯域:30Hz~20kHz
インピーダンス:8Ω
クロスオーバー周波数:700、5kHz
外形寸法:W420 x H720 x D390(mm)
重量:23kg

3-4.Scepter(セプター)ユニットシリーズ誕生

1962年から継続している、オンキヨー独自のスピーカー高音質化研究開発プロジェクト「Scepter(セプター)」。セプターとは日本語の「王位」を意味する言葉で、そのコンセプトは「ソースによる再生音の適不適がない」「ホーン臭くさくない音質」「疲労感のない素直な音質」の3点と言われている。

そして1968年、いよいよScepterユニットシリーズが誕生する。30cmウーファー「W-30A」、ホーン型スコーカー「HM-500A」、ホーン型トゥイーター「TW-8A」、スーパートゥイーター「TW-7S」である。

W-30Aは、反応が鈍くなりがちな他のハイコンプライアンス・ウーファーとは一線を画しており、ホーンユニットとのつながりもごく自然で、エンクロージャーとの適合性も広いウーファーだった。金額は2万円と、当時、コーラルやパイオニアの同口径ウーファーが1万円未満であったことを考えるとかなり高額だが、非常に扱いやすいウーファーとして人気を博した。

HM-500Aは、カットオフ周波数が500Hz(推奨クロスオーバー700Hz)。にもかかわらず、20,000Hzに及ぶ広帯域特性を実現したのは日本では初めてのことだった。ダイアフラムは口径3.5センチのスーパージュラルミン。後にチタンダイアフラムの高級モデルも登場した。定価は11,000円。

TW-8Aは、当時の価格で11,000円のホーンツイーター。アルミ棒から削りだした肉厚のホーンに、スーパージュラルミンのダイアフラム。カットオフ周波数は3,000Hz(推奨クロスオーバー5,000Hz)。低域がへたらない特徴を持つため、過大入力にさえ配慮すればカットオフすれすれでも使用が可能。なお、音響レンズ「AL-8A」は、JBLの模倣ではなく独自によるデザインである。定価は4,500円。

TW-7Sは、カットオフ周波数3,000Hz、上限は40,000Hzで、指向特性も良好なスーパーホーンツイーターである。定価は11,000円。ちなみに、発売された4ウェイ用ネットワークのクロスオーバーは10,000Hz(6dB/oct)に設定されていた。

そして、それぞれは1969年に「W-30A/Ⅱ」「HM-500A/Ⅱ」「TW-8A/Ⅱ」「TW-7S/Ⅱ」へと進化し、1970年にはそれら新しいユニットを使用した「Scepter120」が発売に至る。

Scepter120は4ウェイのスピーカーシステムで、エンクロージャーはロー・ボーイ・タイプの完全密閉型。内容積は120ℓ。バッフル板は厚さ40mmを誇り、マルチアンプ用端子も装備。スイッチ切換によるマルチアンプ再生が可能だった。

金額は1本198,000円。

3-5.INTEGRAシリーズ誕生

オンキヨーのアンプ部門は比較的遅れをとっていたが、オンキヨーが「スピーカーメーカー」ではなく、「音響総合メーカー」として認知されるようになったのは、このINTEGRA(インテグラ)シリーズ誕生から、と言っても過言ではないだろう。

そんなINTEGRAシリーズ初代となったのは、1969年に発売された「INTEGRA 701」。「入力信号に色付けせず、無色透明のまま増幅すること」をコンセプトに開発された単品アンプである。

最大の特徴は,信号経路にカップリングコンデンサーを挿入しない全段完全直結方式が採用されたDCアンプなことである。これにより各特性が大きく改善。特に極低音域でのパワーやダイナミックレンジの大幅な向上が実現された。

また、ドライブ段の全てに差動増幅回路を特殊な組み合わせによって採用。完全なバランスをとることにより、低歪率を実現している。

そして、翌年の1970年である。インテグラシリーズは「INTEGRA 725」へと進化。当時の標準的なフォノイコライザー許容入力は100mVだったが、2倍の200mVを実現。そのマージンの大きさによるクリアなサウンドが特徴的だった。そして、この「INTEGRA 725」は、月刊音楽誌「スイングジャーナル」にてオーディオ評論家・菅野沖彦に絶賛され、大ヒットを記録した。

4.変化の70年代

4-1.70年代年表

1970年代は、オンキヨーにとって企業体質が大きく変わった年代だった。

1971年9月、社名を大阪音響株式会社からオンキヨー株式会社に変更。
1972年7月、ドイツ・ミュンヘンに、欧州向け輸出用モデルのシステムの企画や音質のコーディネートを担当する現地法人「Onkyo Deutschland G.m.b.H Electronics」を設立。
1972年11月、本社を大阪府寝屋川市日新町2-1に移転。同時に音響技術研究所を設立。
1975年11月、アメリカのニューヨークに販売の拠点となる現地法人「Onkyo U.S.A.Corporation」を設立。
1977年、ロゴを一新し、現在のロゴに変更。
1980年9月、現「オンキヨーディベロップメント&マニュファクチャリング株式会社(ODM)」の前身となる生産会社「三重オンキヨー」を三重県津市に設立。

もちろん、70年代は企業体質が変わっただけではない。
意欲的な製品をいくつも発売している。

例えば1971年には、日本で初めてとなるセパレート型4chステレオ「X-1」を発表。当時のステレオアンサンブルシステムは2chの3筐体分離型が主流だったが、「X-1」はメインスピーカーの反対側に「サラウンド」スピーカーを追加した5筐体分離型の4chステレオである。

また、1977年には、ユニット、エンクロージャー、ネットワークなどを自由自在に組み合わせられるScepterシステムスピーカーを発売。173通りもの組み合わせが考えられるユニークな製品で好評を博した。

しかし、オンキヨーの70年代といえば、やはりスピーカーシステム「M6」だろう。
1975年にプロトタイプが発表され、1976年に発売された「M6」は、大口径のウーファーが高い評価を受け、瞬く間に爆発的な人気商品となった。

4-2.「M6」

M6が人気を博した要因は、クラスを超えた強力なウーファーにあった。

低域には31cmコーン型ウーファーW-3503Aを搭載し、振動板にはマルチコルゲーション付シートコーンを採用。ウーファーをドライブする磁気回路は、10,000gaussの磁束密度を確保する180φx95φx15mmの大型マグネットに加え、78φmmのロングボイスコイルを用いた強力なもので,ポールには電流歪を低減させる銅製ショートリングを付け、磁気回路での歪対策を図っていた。

エッジやトゥイーター、キャビネットにもユニークなアイデアがつまっているが、M6には「モードセレクター」が付いていることも大きな特徴の一つである。M6のモードセレクターは、モード1は通常のフラットなパターン、モード2は高・低音を強調したパターン、モード3は中高域を抑えたパターンで、聴く音楽や部屋の状況や環境、あるいは好みに応じて簡単に切り換えが楽しめる機能だった。

そして、このM6はM6Ⅱ、M6Ⅲへと進化し、多くのオーディオファンを魅了した。

5.歴史的名機

5-1.伝説の名機「GS-1」

1980年代初頭、オンキヨーは数々の意欲的な製品を世に送り出している。1981年には、世界初となる2倍速ダビング機能搭載のダブルカセットデッキ「TA-W800」を発売。1982年には、「ニューオーディオ」とも呼ばれたミニコンポRadianシリーズの初代モデルを発表している。

そして、そんな流れの中、1984年にオンキヨーが発表したのが、伝説の名機として名高いスピーカーシステム「Grand Scepter GS-1」である。日本のスピーカーとしては珍しいオールホーン型の2ウェイ3ユニットのシステムで、日本ばかりでなく海外においても(特にヨーロッパ)、今なお高い評価を獲得している名機だ。

低音は28cm口径のコーン型2個をフェイズプラグ付きの、それぞれ独立したショートホーンと組み合わせ、高域用はチタン振動板のコンプレッションドライバーが大型ホーンと組み合わせられている。

オールホーン型スピーカーは世界的にも決して少なくないが、このGS1は独特の設計思想に基づいており、極めて特徴的なスピーカーシステムと言える。多くのホーン型スピーカーの狙いは、高音圧を得るための高能率化や音の抜けの良さ、あるいは指向性コントロールだったりするのだが、GS1は一貫して、高調波やリバーブ、波形などの歪みを除去し、色付けのない再生を目的としている。

もともとは量産機ではなく研究所が独自に研究用として開発したものだが、その独特の再生の魅力が評判となって製品化された。

金額はペアで2,400,000円。

【GS1 の主な仕様】


方式:2ウェイ・3スピーカー・オールホーン方式・フロア型
使用ユニット:低域用/28cmコーン型(W3060A)x2、高域用/ホーン型(TW502801A)
再生周波数帯域:20Hz~20kHz
インピーダンス:8Ω
クロスオーバー周波数:800Hz
外形寸法:W630 x H1,060 x D615(mm)
重量:117kg(低音部77kg、高音部40kg)

5-2.D77

1985年、オンキヨーが59,800円で発売したのが、ブックシェルフ型3ウェイスピーカーシステム「D-77」である。

59,800円の理由は、オーディオ市場では1980年代に入ると各社が申し合わせをしたように、1台59,800円という価格帯のスピーカーシステムを導入。いわゆる「598戦争」が勃発していたからであり、そしてD-77は、そんな状況の中でベストセラーを記録した名機である。

このモデルは後に何度もモデルチェンジされており、
1986年にD-77X
1987年にD-77XX
1988年にD-77XD
1989年にD-77XG
1990年にD-77FX
1992年にD-77FXⅡ
1994年にD-77RX
1996年にD-77FRX
2000年にD-77MRX
と進化し、文字通りロングセラーとなった。

6.21世紀のオンキヨー

21世紀のオンキヨーは、70年代のオンキヨーを彷彿させるかのように活発的に事業を展開している。

2002年にはインディーズレーベル「Premium Stones」を設立し、音楽ビジネスに参入。数ヶ月後にはインターネットを利用した音楽コミュニティサイト「Artist-Debute.net」を立ち上げると、楽曲配信を開始。これは後の「e-onkyo music」へと発展していく。

そして2007年にはパソコンメーカーのSOTECを子会社化。SOTECのパソコン企画開発力と、オンキヨーのAV技術力を融合させ、イノベーションを加速化させた。

さらに2012年には、世界有数の楽器メーカ「Gibson社」と資本・業務提携すると、その三年後の2015年には、AV市場で長い歴史と経験を持つパイオニアと合併し、オンキヨー&パイオニア株式会社を誕生させたと思えば、同じ年の11月には、河合楽器製作所と資本・業務提携し、新しい可能性を模索している。

7.まとめ

生まれも育ちも大阪のオーディオブランド「ONKYO」は「暮しの手帖」や「ステレオサウンド」と言った雑誌で高い評価を獲得し、スピーカーメーカーとしての確固たる地位を獲得してきた。そして、そんなオンキヨーのフラッグシップモデルが「Grand Scepter GS-1」、日本ばかりでなく、世界的にも今なお根強い人気を誇る伝説的名機である。オーディオファンなら一度は色付けのない音に耳を傾けたいものだ。

もちろん、21世紀に入ってからの活躍もめざましく、音楽レーベルを立ち上げたり、「Gibson社」と資本・業務提携をしたりと、常に世界のオーディオ・音楽業界を牽引している。

ただ、「ONKYO」の正しい表記は、拗音を小書きしない「オンキヨー」だ。
日本が誇る偉大なオーディオブランドだからこそ、敬意を表す意味でも間違えてはならない。と、そう思う。