マランツ・カンパニーの「Marantz」ブランドストーリー

マランツと言えば、往年の銘機をいくつも発表したオーディオ名門メーカーである。中でもマランツ7は伝説とまで言われており、きっとこの読者にも憧れを抱いている人は多いことだろう。

しかし、そんな名門メーカー「マランツ」だが、勘違いしている人は少なくない。

例えば、マランツは国内メーカーと紹介されることがしばしばあるが、正確には、海外生まれの国内メーカーだ。誕生はアメリカのニューヨーク。創設者はアメリカ人だ。決して日本生まれのブランドではないし、むしろマランツ誕生の際に日本はまったく関係ない。

では、なぜマランツは日本の音響メーカーとして紹介されているのか。
いったい、マランツにはどんな歴史があるのだろうか。

今回・次回と続けて、マランツブランドの歴史を振り返ってみたい。

目次

  1. 創業
    1-1.創始者「ソウル・B・マランツ」
    1-2.処女作「オーディオ・コンソレット」
    1-3.設立「マランツ・カンパニー」
  2. 確立「マランツ」
    2-1.天才「Sidney Smith(シドニー・スミス)」
    2-2.マランツ初のパワー・アンプ「モデル2」
    2-3.1957年〜58年のマランツ
  3. マランツ3大銘機
    3-1.モデル7
    3-2.モデル9
    3-3.モデル10
  4. 天才たちのその後
  5. まとめ

1.創業「マランツ」

1-1.鬼才「Saul・B・Marantz(ソウル・B・マランツ)」

参照:http://www.marantz.jp/jp/AboutUs/Pages/History.aspx#01

マランツの創始者「ソウル・バーナード・マランツ」は、1911年、アメリカのニューヨーク・ブルックリンで生まれた。インダストリアルデザイナーであり電気技術者だった彼は、アマチュアながらもチェロの演奏家で、さらにレコード収集家でもあって、音楽をこよなく愛する男だった。

そんなソウル・バーナード・マランツが起業したのは、1953年のことである。終生のライバルと言われた「マッキントッシュ」が創業したのは1946年なので、彼に7年遅れての設立ということになる。

没年は1997年。4年後に生誕100周年を控えた96歳だった。

しかし、ディーアンドエムホールディングス(現在のマランツブランドの運営会社)は2012年、彼の生誕100周年を記念して、「ソウル・B・マランツ生誕100周年記念 オリジナルスーパーオーディオCDプレゼントキャンペーン」を実施。マランツが製品開発した際、試聴音源として使用していたと言われる楽曲(マランツ創業期〈1950年代〉の名録音)が収録されたスーパーオーディオCD(SACD)を、マランツ愛好家にプレゼントし生誕100周年を祝った。

1-2.処女作「オーディオ・コンソレット」

第二次世界大戦中に陸軍に服役したソウル・バーナード・マランツは、戦後、妻のジーン・ディッキー・マランツとニューヨーク市クイーンズ区の中心部キュー・ガーデン地区に移住する。そこで彼は、自分が乗っていた1940年代のマーキュリー(Mercury。アメリカのフォード・モーターの車)からラジオを取り外し、自分の部屋に持ち込んで改良を開始。そして、マンハッタンのハーベイ・ラジオ店に頻繁に訪れながら高音質を求めてラジオの改造に取り組んでいた。

すると、やがて友人のスタジオエンジニアから依頼され、プリアンプの制作を始めることとなった。マランツは、当時の市販アンプにまるで満足していなかった。そのため、主に自分が学んだ精密回路の知識を基にアンプの設計製作に取り組むのだが、当時のレコードは録音特性がまちまちだった。レコードの裏と表で、違う物があったほどである。したがって、マランツは全てのレコードを正確に再生するため、各種のイコライザーカーブを備えたプリアンプを製作。「Audio Consolette(オーディオ・コンソレット)」を完成させた。

1951年、ソウル・バーナード・マランツ40歳のことである。

1-3.設立「Marantz Company(マランツ・カンパニー)」

ソウル・バーナード・マランツが初めて完成させたプリアンプ「オーディオ・コンソレット」は、彼自身も納得できるアンプだったが、それは仲間内でも非常に高評価だった。そして、オーディオ・コンソレットは仲間のクチコミによってさらに人気を博し、当初は100台限りの予定だったが、およそ400台もの受注を抱えるに至る。が、妻のジーン・ディッキー・マランツとの二人だけではとても生産が追いつかなかった。そこで急遽、ソウル・バーナード・マランツはオーディオ・コンソレットを量産するための会社「Marantz Company(マランツ・カンパニー)」を設立。ニューヨーク州ロング・アイランド市に小さな工場を借りて事業化する。1953年のことである。

マランツの初作品「オーディオ・コンソレット」は、当時乱立していた各社のフォノイコライザー特性を容易に切り替えることができ、テープモニタースイッチ等も実装する多機能プリアンプだった。そして、そのオーディオ・コンソレットが、翌年制定されたRIAAイコライザー規格に合わせるなどのマイナーチェンジを果たし、マランツ・カンパニー設立翌年の1954年、オーディオ・コンソレットは真空管式モノラル・プリアンプ「#(モデル)1」となって一般の世にも売り出された。

#1は、オーディオ・コンソレットを原型とした真空管式モノーラルプリアンプで、真空管12AX7が3本使用されており、PHONOイコライザーは2段P-K帰還形で構成されていた。そして、RIAAばかりでなく、FLATを含めた6種類のカーブがセレクトでき、さらにトーンコントロール、ラウドネス、カットオフフィルタなどの機能も豊富な上、出力ケーブルによる高域劣化を補償するテープモニター回路が採用されていた。

当時の販売価格は168ドル。はっきり言って超高級品だったが、それでもこの#1は業界内でも非常に評価され、マランツは事業化早々に最高の滑り出しを見せることとなった。

2.確立「マランツ」

2-1.天才「Sidney Smith(シドニー・スミス)」

シドニー・スミスは、1923年生まれのオーディオエンジニアで、ソウル・バーナード・マランツに「天才」と言わしめた男の一人だ。彼は第二次世界大戦中、アメリカ軍のラジオ技術者としてエレクトロニクスを学び、戦後はGIビル(復員兵援護法)で大学へ進学。そこで妻のマリリンと出会うのだが、シドニーは合唱、マリリンはバイオリンと、二人はそれぞれが舞台芸術を学んでいた。そして、二人は音楽に引き寄せられるように恋に落ち、やがて結婚するに至る。

シドニーの最初の就職先はシカゴで、彼は自身の電子的経験に基づいて製造される最初のWilliamson型増幅器の生産エンジニアだった。しかし、シドニーは20代のある日、ソウル・バーナード・マランツに出会い意気投合を果たす。そして、すぐにその職場を退職すると、1954年、マランツ・カンパニーへ入社した。

没年は2000年。享年77歳だった。彼はオーディオに献身しながらもニューヨーク周辺のプロのオペラ劇団で主役を務め、教会にパイプオルガンを建設し、カリヨンを再建し、妻と共に娘をミュージシャンに育てた。

シドニーは、まさに生涯を音楽に捧げた男だった。

2-2.マランツ初のパワー・アンプ「モデル2」

1954年にマランツ・カンパニーに入社したシドニー・スミスは、その2年後の1956年、早速マランツのパワーアンプの原点となる「#(モデル)2」を発表した。

#2は、発表当初からとても話題になった高性能な真空管式モノーラルパワーアンプで、6CA7(EL34)のプッシュプル方式モノラル・パワーアンプだった。三結で20W、UL(ウルトラリニア)で40Wの出力を誇り、バイアスメーターやバリアブル・ダンピングファクター・コントロール等も搭載する意欲的なアンプだった。

全高調波歪率は0.1%、周波数特性は20Hz~20kHz、Hum-90db、IM歪0.5%。
当時としては非常にハイスペックである。そして、この実績は世間も認めるところであり、この#2以降、ソウル・バーナード・マランツはプリアンプを手がけ、パワーアンプの設計は全てシドニー・スミスに委ねることとなった。

使用真空管は6CA7、12AX7、6CG7、6AU4GTA。バリアブル・ダンピング機構、AC/DCバランス/バイアス機構、3系統入力端子を備え、金額は発売当時で198ドル。

2-3.1957年〜58年のマランツ

1957年、マランツは真空管12AX7を搭載したモノラル2ウェイタイプのエレクトロニック・クロスオーバー「#(モデル)3」を発売する。スロープ特性は12db/oct。低域12ポイント、高域12ポイントの周波数選択が可能なモデルだった。金額は105ドル。

そして同年の1957年には、セレン整流器を採用した#1または#3用のパワーサプライ「type4」(販売当時は168ドル)も発表した。

翌1958年、マランツはマルチチャンネルでの多数個使用を考慮し、高域の歪みを低減したパワーアンプ「#(モデル)5」を発表。#2のコストダウン型モデルだったが、真空管は6BH6、6CG7、6CA7、GZ34を使用、6CA7プッシュプル方式で、UL接続時には30W出力を誇った。#2の流れを組みながら、より広帯域を目指して作られた真空管式モノラル・パワーアンプだが、バイアス調整メーターなど、後の#8を思わせる部分も認められる名作だった。金額は154.5ドル。#2より40ドルほど安い。

また、同じ1958年のステレオレコードが登場してすぐには、ステレオアダプター「#(モデル)6」を発売している。これは2ch仕様のセレクターとボリュームを搭載しており、テープモニター端子を利用して接続する。1958年にステレオ化されたLPレコードにいち早く対応するために発表されたこの#6は、2台の#1とともに専用キャビネットに収めて使用するのが一般的だった。

そして、その年の12月。いよいよ伝説の銘機・ステレオプリアンプ「#(モデル)7」のアウトラインが発表され、すぐに細部が改良されて「#7C」となり、このモデルは今なお最高のプリアンプの一つとして君臨するに至っている。

3.マランツ3大銘機

3-1.モデル7

プリアンプ伝説の銘機「マランツ7」。「モデル7」とも呼ばれているが、それは一般的には「#(モデル)7C」を指す。先にも触れたが、#7はすぐに改良されており、一般に流通したのは「#7C」だからである。

なお、#7の生産台数はナンバー10001~23000番台の1万台超で、なかでも#7は初期・中期・後期の3種類に分けられるが、10001~17000番台が特に人気が高い。

発売は1958年。
真空管は12AX7を6本使用。RIAA規格の他、オールド78、オールド・コロンビアLP規格イコライジングを搭載。
外形寸法は、W365×H127×D216mm(ケース別)。重量は6.8kg。
金額は当時の価格で273ドル。

この真空管式ステレオ・プリアンプは、フォノイコライザー部、音量調整のボリュームとトーンコントロールを配したラインアンプ部、カソードフォロワーのバッファー部で構成されており、#7を銘機と決定づけたイコライザー部は、初段と二段目はプレート負荷抵抗270kΩ、カソード抵抗4.7kΩ、終段のカソードフォロアーはカソード27kΩでセルフバイアス抵抗は680Ωが設定されている。また、段間のCR結合には0.01μF×330kΩ(≒48.2Hz)、0.1μF×1MΩ(≒1.59Hz)と程よいスタガー比が確保されている。

伝説の銘機と名高い#7だが、実は回路自体はシンプルだ。しかし、さりげなく、とてつもないアイデアが満載されている。また、現在での使用はもう考えられないが、トーンコントロールが各ポジションごとCRで特性を調整し、フラットでは完全なスルーになる構造を採用。一切の妥協を感じられない造りである。

そして、デザインも秀逸だ。

信号の流れに沿ったパネルレイアウトは、絶妙なアンバランスを保持しながらのシンメトリーデザイン。洗練された美しさを感じずにはいられない。

発売以降、最高のプリアンプとして君臨しつづけ、半世紀過ぎた今でもプリアンプの手本とされている#7。
見れば見るほど、その魅力が理解できる伝説の銘機である。

3-2.モデル9

#7が発売された1958年、マランツはステレオパワーアンプ「#(モデル)8」を発表する。真空管式パワーアンプの中では唯一のステレオ式で、出力は30W+30W。

そして、#8は1961年に様々な点が改良されて「#8B」として生まれ変わる。#8Bはソウル・バーナード・マランツが手掛けた最初で最後の1電源ステレオパワーアンプで、#8からの改良点は大きく二つあり、一つは出力が35W+35Wにアップされたこと、もう一つは外部ユニットへの電源供給用コネクターを外したことである。使用真空管は6BH6、6CG7、6CA7/EL34。クロスオーバーNF回路、位相補正、シリコンダイオードによる倍電圧整流方式を採用するこの真空管式ステレオ・パワーアンプは、当時で258ドルだった。

そして、#8と#8Bの間に発表されたのが、#7と並び往年の銘機と名高いモノーラルパワーアンプ「#(モデル)9」である。紛れもなく、マランツ真空管パワーアンプの頂点である。

#7が登場した時のペアとなったパワーアンプは、マルチアンプドライブ構想の源流となった#2である。出力は40W。出力管を3極管接続と5極管接続に切り替え可能で、ダンビングコントラーを搭載していた。チーフエンジニアはシドニースミスだ。

そして、#2をさらに進化させ、6CA7(EL34)ULパラレルプッシュプル構成によって出力を70Wへと格段にアップしたのが#9である。もちろんこちらもシドニー・スミスによる設計だ。

6CA7(EL34)ULパラレルプッシュプル構成は、おそらく当時ハイパワーを誇っていたマッキントッシュを意識したものだろう。しかし、#9はパワーもさることながら、マランツ史上最初のフロントパネルを持つパワーアンプで、デザインも高い求心力を誇った。特にシルバーフィニッシュの中央にデザインされたバイアスメーター。このセンターメーターデザインは今のマランツにも採用されているが、由来はこの#9である。

そして、接続はUL接続と3極管接続の2方式のセッティングが可能で、UL接続ではパワフルな音色を、3極管接続では繊細で浸透力あると音色をと、二通りの音が楽しめるのも魅力だった。

この#9発売以降、#7とは黄金コンビとして、銘機という称号をほしいままにした。

真空管は、6DJ8/ECC88、 6CG7、 6CA7/EL34を使用。6CA7パラレルプッシュプル出力段。出力はUL接続時で70W、3極管接続時で40W。アクティブ型低域フィルター、位相切替、クロスオーバーNF回路、位相補正、シリコンダイオードによる倍電圧整流方式電源回路採用。外形寸法は、W390×H200×D230mm。重量は23kg。販売価格は324ドル。

3-3.モデル10

3-3-1.もう一人の天才「Richard Sequerra(リチャード・セクエラ)」

リチャード・セクエラは1929年に生まれ、国務省で働く母親によってアメリカの様々な地域で育った。 20歳の頃にはフリーランスのキャリアを開始し、以来、「Dubbings Company」と呼ばれる会社の自動テープ間録音システムや、マンハッタンにあるGreenwich Villageのオフブロードウェイ劇場用のハイファイスピーカーシステムなど、幅広い技術をカバー。そして1961年、アメリカでFMステレオ本放送が開始された年に、いよいよマランツ・カンパニーに入社する。

3-3-2.最高峰のチューナー「モデル10」

1961年にアメリカで開始されたFMステレオ放送に対し、マランツは技術面で相当な遅れをとっていた。そこでセクエラが高周波エンジニアとして採用されたのだが、彼はチーフ・エンジニアとして、入社翌年の1962年にはFM専用チューナー「#(モデル)10」を、1963年には「#10B」を開発している。

このチューナーはまさに最高峰と呼ばれた銘機だった。当時の技術レベルから考えると、検波回路ひとつとっても、マッキントッシュを始めとするどのオーディオメーカーよりもはるかに抜きん出ていて、その音のクオリティは見事の一言だった。特にスピーカーから流れてくる流暢な人の声には、今まで体験したこのない臨場感があり評判だった。構成も新しく、メーターの代わりに小型スコープを使用したりと、様々な面から現代チューナーの手本となった。

ただ、このチューナーは売り時を逃していた。FMステレオ放送の開始は1961年。当然、他社はそのタイミングで新製品を続々と発表したが、マランツはそのタイミングに間に合わなかった。そればかりか、#10Bに至ってはやっと生産にこぎつけたのは、放送開始から3年後の1964年だった。

また、開発責任者のセクエラは完璧主義者で、一切の妥協を許さなかった。そのため、開発費もかかりすぎていた。

結局、そんな事情が重なって、マランツは資金難へと陥った。そしてその結果、マランツカンパニーの一部を、スーパースコープ社に売却することとなる。スーパースコープ社は、アメリカでソニー製テープレコーダーなどの輸入販売を行っていた企業である。

こうして、リチャード・セクエラはソウル・バーナード・マランツとともに会社を去り、「#7」「#9」「#10B」といった現代でも銘記と名高いオーディオを世に送り出したマランツだったが、1964年、そのブランドは他社に買収されてしまう。

4.天才たちのその後

ソウル・バーナード・マランツは、スーパースコープ社にマランツを売却したのち、1968年までは社長として留まるも、その後退職。そして1972年に、Dahlquist Company(ダルキスト)の設立に関わる。現在はホームシアター系のシステムを販売するカナダ籍の会社であるが、当時はオーディオメーカーだった。

そのダルキスト初のスピーカーシステムが「DQ-10」である。ソウル・バーナード・マランツとジョン・ダルキストの共同開発ということもあって、今でも人気のあるスピーカーである。

そして1996年には、ソウル・バーナード・マランツは「New Lineage Corporation」と「Eye Qスピーカー」の2つの新しいオーディオ事業を設立。一方で、オーディオエンジニアリング協会を含むいくつかの専門機関のメンバーとして、オーディオの発展に尽力した。

シドニー・スミスもマランツを去った後、いくつかの会社でオーディオに関わった。

例えば、GRADO Labs社。ニューヨークブルックリンに工場を構え、50年以上の歴史を誇るこのハイエンドオーディオブランドでは、ジョセフ・グラドと共同で最高品位のヘッドフォンアンプ「RA-1」を開発。余裕のダイナミックレンジと広大な周波数レンジを持ち、入力されたソースを繊細に表現することで人気の商品だ。

そして、リチャード・セクエラ。彼はマランツ退社後、自身の名を冠する「SEQUERA」を創立。そして、自分の思うままに設計を進め「MODEL1」を完成させる。1970年に発表されたこのチューナーは、「超」がいくつついてもおかしくないほどの超高性能マシンで、当時でも非常に高級品だったが今尚(特にアメリカでは)高値で取引されている名機である(ちなみに、セクエラとシドニー・スミスは1970年代半ばにこの会社で再開していて、「SEQUERA MODEL1」ではシドニー・スミスも開発に携わっていた)。

5.まとめ

マランツ社の創業者「ソウル・バーナード・マランツ」は、まさに鬼才だった。しかし、マランツブランドは彼一人で成長させたわけではない。「シドニー・スミス」「リチャード・セクエラ」という、二人の天才の存在も大きい。

実際、プリアンプは「ソウル・バーナード・マランツ」、パワー・アンプは「シドニー・スミス」、チューナーは「リチャード・セクエラ」と役割が分かれていて、それぞれが#7、#9、#10Bと歴史に名を残す名機を誕生させている。

しかし、天才は時に経営を考えずに突き進む。

特にリチャード・セクエラによる#10Bは、開発時に一切の妥協を許さなかったためマランツ社の資金繰りを悪化させ、結局、マランツを売却するに至らしめ、三人ともマランツを去ることとなる。

それでも、マランツの第一次黄金期を作り上げた彼ら三人は、結局マランツを去っても生涯をオーディオの発展に捧げ、その先々で名機を歴史に残した。

マランツ。

50年前も現在も、今尚多くの人を魅了するブランドたる理由は、きっと三人の天才がオーディオを心から愛していたからだろう。

少なくとも、私はそう思う。