JBL 誕生物語 ~プレミアムな音は、こうして世界に響き始めた~


家庭だけにとどまらず、映画館やコンサートホールなど、究極のステージにも君臨する JBL。そのスピーカーは、数多くの著名アーティスト達をも魅了する。

ポール・マッカートニーはこんなコメントを残している。
「私にとって JBL とは”素晴しいサウンド”と同じ意味であり、私はレコーディング・アーティスト、そ してツアー・ミュージシャンとしてのキャリアを通じて JBL を使用してきました。ファンに”Heart the truth”してほしいし、JBL はそれを叶えることができます」

※2012年1月、ロンドンにて”Hear the truth”の動画 CM の撮影後に音にこだわる大人たちに愛され続けているスピーカーブランド「JBL」。 私たちは今日、数々の傑作を生み出したJBLの誕生秘話を、皆さんと一緒に振り返りたい。

音楽を愛する全ての人へ。
この記事が、皆さんの JBL 愛を少しでも深められれば幸いだ。

目次

1.JBLが生まれるまで
2.JBLサウンドの原点となる2つのシステム
3.いまのJBL
まとめ

1.JBL が生まれるまで

1-1.JBL のルーツ

1946年、アメリカで設立されたスピーカー製造会社「JBL」。その社名は、音に人生を捧げた「ジェームス・バロー・ランシング(James Bullough Lansing)」のイニシャルに由来する。ランシングは、音の天才エンジニアであり、世界最大のスピーカーメーカーJBLの創設者だ。

しかし、彼が最初に設立した会社はJBLではない。ランシングがその人生で初めて設立した会社は、ランシング・マニュファクチャリング社(Lansing Manufacturing Inc.)というスピーカー製造会社だった。1927年のことである。

ランシングは JBLの前身となる「ランシング・マニュファクチャリング社」を設立する。 この会社の当初の事業内容は、ラジオとコンソール型ラジオに使われるラウドスピーカーの製造だった。顧客も一般ユーザーではなく、中西部諸州のラジオセットメーカーが大半だった。 大型製品も時に製造したが、せいぜいコンソール型ラジオ用のスピーカー程度だった。

しかし1934年、ランシング・マニュファクチャリング社は突如飛躍する。 アメリカのハリウッド映画会社 MGM(Metro Goldwyn Mayer Studios)からの依頼により、トー キー映画再生システムの開発に携わるのである。

1-2.飛躍

当時のアメリカ国内におけるトーキー映画再生システムといえば、WE(ウェスタン・エレクトリック)製システムだった。しかし、このシステムに対して MGMは満足しておらず、また問合せに対する WE 側の対応にも不満を感じていた。

そこで、MGM 独自のトーキー映画再生システムの開発を決断するのだが、その開発エンジニアのリー ダーとして白羽の矢が立ったのが、当時実績を積み上げつつあったランシング社だった。とはいえ、当時のランシング社の規模はまだ小さく、とても一社で対応できるものではなかった。そこでランシングをリーダーとして、当時のオーディオ関連のそうそうたるトップエンジニアが集結し、 MGMオリジナルのトーキー映画再生システムの開発が進められた。

それから約一年。大型劇場用2ウェイスピーカーシステム「シャラーホーン・システム」は完成する。 このシステムは全米各地の MGM 系映画館に相当数が納入され、1936年には映画芸術科学アカデミー賞を受賞する。一方で、1937年、ランシング・マニュファクチャリング社は小型版の 2ウェイ・モニタースピーカー 「アイコニック」を発表する。 このアイコニックはビジネス的にも大成功を収めるに至り、ランシングの名は広く世界に知れ渡る。

が、1941年、ランシング・マニュファクチャリング社はアルテック・サービス社に買収されてしまう。 経営不振が原因だった。

1-3.技術担当副社長として

ランシング・マニュファクチャリング社を買収したアルテック・サービス社は、子会社「アルテック・ ランシング社」を設立し、ランシングを技術担当副社長として迎える。ランシングはそこで5年間勤務し、その間、2ウェイ同軸型604ウーファー 515ドライバー288など、数々の名ユニットの開発に成功する。 (これらのユニットを使った劇場用スピーカー「ヴォイス・オブ・ザ・シアター」システムは、当時の映画館の標準スピーカーとなるほどだった)

しかし、このように映画業界で活躍したランシングだったが、彼はある強い想いを胸にアルテック社を退社する。1946年のことだった。

1-4.「もっと美しい家庭用スピーカーがつくりたい」

これはランシングがアルテック社を離れる際、退社の理由として発した言葉である。
そして 1946年10月1日、アルテック社を退社したランシングは新たに会社を設立する。「ランシング・サウンド・インコーポレーテッド」。

ランシングが二度目におこした会社である。

しかし、アルテック社はこの社名に対し抗議をしてくる。 ランシング社を買収した時、双方合意のもと「ランシング」という商標はアルテック社に属することに なった。だから、その社名は紛らわしいから変更して欲しい、というのだ。

そこで彼は社名を変更する。
ジェームス・B・ランシング・サウンド・インコーポレーテッドJames.B.Lansing Sound Inc.)」

そう、ここで初めて、JBL社が始まるのである。

ランシングがスピーカーを作り始めて約 20 年。 長い年月を要したが、こうしてプレミアムな音を響かせる「JBL」はこの世に誕生したのである。

2.JBL サウンドの原点となる 2 つのスピーカー

JBLサウンドの原点を確立したスピーカー「シャラーホーン・システム」と「アイコニック」。 ここでは、その二つのスピーカーの概要をまとめてみる。

2-1.シャラーホーン・システム

名実共にジェームス・B・ランシングの存在を不動のものにした「シャラーホーン・システム」。
このシステムは大型の2ウェイシステムで、高域には環状スリットのイコライザーを備えるドライバーで高音用マルチセラーホーンを駆動する珍しいものだった。 低音部分は、オープンバック方式により作動する15インチウーファーを持った大型ダブルホーンで構 成されていた。
このシステムの登場は、真の意味でのトーキー時代幕開けを思わせるほど迫力があり画期的だった。

2-2.アイコニック・システム

アイコニックは2ウェイ構成のシステムである。
低音域が15インチ低音用ラウドスピーカーと、高音域が小型高音用ドライバー 801(後の「アルテック802」)の組み合わせだ。
当時、モニターラウドスピーカーとして、映画産業会で広く人気を博したこのアイコニック。 今日、数多く使われている2ウェイ構成は、このシステムに若干の変更点を与えたものに過ぎないと言っても過言ではないだろう。

3.いまの JBL

1967年、JBLはジャービス・コーポレーション(Jervis Corporation;現ハーマン・インターナショ ナル)に買収され、現在はその傘下で、一般家庭用のJBLと、業務用のJBL Professional の2つのブランドを展開している。
採用実績は華々しい。
オバマ大統領の就任演説を始め、世界の映画館の50%、2014 年のワールドカップ会場の60%、ハリウッドにあるスタジオの 80%に採用され、トヨタやフェラーリなどの純正オーディオとしても活躍して いる。
また、家庭用製品では、ペアで 600 万円を超えるフラッグシップモデルからヘッドフォンやイヤフォン、アクティブスピーカーまで、幅広いラインナップを揃え、その全てはJBLサウンドとしてその歴史 に恥じない音を一般家庭でも再現している。
「音響技術と音楽芸術の融合」をテーマに掲げるJBL。 これからも、きっと世界のエンターテイメントを支えていくことだろう。

まとめ

JBLの創業者、ジェームス・バロー・ランシング。彼のスピーカーづくりのキャリアは、JBLが設立される以前に始まっていた。
しかし、ランシングがその人生で初めて立ち上げた会社は、惜しくも経営不振に陥り買収されてしまう。
それでもランシングの「もっと美しい家庭用スピーカーをつくりたい」という強い想いが、1946 年、 彼にもう一度会社を設立させる。そう、それが今のJBL だ。
1946年と言えば、第二次世界大戦が終結した翌年である。 だから私は、ひょっとして、と思うのである。
JBLは平和の訪れを奏でるべく誕生した、奇跡の企業ではあるまいか、と。
そう思えても不思議ではないほど、JBLの音は私にとって特別に聞こえるものなのである。