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音楽で紐解く小澤征爾(後編)

前回までで小澤征爾の略歴をまとめてきましたが、今回は「知っているようで知らない小澤征爾の秘話」。

  1. 小澤征爾のつくったオーケストラ
    1-1.新日本フィルハーモニー
    1-2.サイトウ・キネン・オーケストラ
  2. 小澤征爾の「指揮」にまつわる秘話
    2-1.なぜ指揮者になったのか
    2-3.なぜ指揮棒を持たないのか
  3. 小澤征爾の秘話
    3-1.ブザンソンの秘話
    3-2.カラヤンコンクールの秘話
    3-3.小澤征爾の父の葬儀と三島由紀夫
  4. まとめ

 

1.小澤征爾のつくったオーケストラ

1-1.新日本フィルハーモニー

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N響事件以降、日本の音楽会に居場所を失った小澤征爾。しかし、フジテレビ社長の水野成夫が「日本フィルハーモニー交響楽団」の首席指揮者のポジションを用意し(日フィルは水野成夫が作ったオーケストラで、親会社はフジテレビと文化放送)、1968年、小澤征爾はシカゴのラヴィニア音楽祭やトロント交響楽団の仕事と並行して、日本でも定期的に指揮するようになります。
しかし、1971年のことです。日フィルの楽員は待遇の向上を求めて親会社と衝突。年末に日本のオーケストラ初のストライキを起こします。事態収拾のメドは全く立たず、水野の後任のフジテレビ社長・鹿内信隆ら経営陣は、翌年5月、日フィルの解散を決定します。

この事態を受け、小澤征爾は斎藤秀雄に師事した同門・山本直純(作曲家。映画「男はつらいよ」のテーマ曲を作曲したり、「サントリー1万人の第九」を企画するなど、日本の音楽普及に最も貢献したひとり)や、文化放送社長・友田信と面談を重ねるも、決定はくつがえらず。そして6月、小澤征爾はとんでもないことをしでかしてしまいます。日本芸術院賞の授賞式のことです。天皇陛下に「自分だけ賞をもらったけど、今一緒にやっている日フィルは大変なんです」と直訴してしまいます。しかもその日の小澤征爾の格好は、風邪で目が腫れていたこともあってサングラスを着用していました。そんな怪しげな姿が翌日の新聞に載ったものですから、小澤征爾の元には脅迫めいた手紙が届くようになります。

その頃の小澤征爾には、生まれたばかりの娘・征良がいました。そのため家族を案じた小澤征爾は赤坂のホテルで暮らすようになります。そして、そのときの小澤征爾をバックアップしたのが、日本船舶振興会の会長・笹川良一です。笹川は全日本空手道連盟会長でもあったため、小澤征爾の音楽会は一時期、空手の強者たちが最前列にずらっと座ります

いずれにせよ、日フィルは6月に解散するのですが、最後の定期演奏会のことです。世界最高峰のオーケストラ「シカゴ交響楽団」のトランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレベンジャーをゲストで招き、小澤征爾はマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮します。そして1972年のことです。小澤征爾と山本直純は、日フィルを退団した楽員の1/3を率いて、まるで日フィルを「復活」させるかのごとく「新日本フィルハーモニー交響楽団」を設立します。

その直後、あの有名な音楽番組「オーケストラがやって来た」が始まり、新日フィルはその番組内の演奏を担当します。

音楽番組「オーケストラがやって来た」には小澤征爾も非常に協力的で、自身もかなりの数に出演する一方、バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、ピアノのルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキンなど、親しい外国の音楽家にも積極的に主演してもらい、番組を盛り上げました。

 

1-2.サイトウ・キネン・オーケストラ

小澤征爾には4人の師匠がいます。学生時代の齋藤秀雄、ブザンソンコンクールで優勝した直後はシャルル・ミュンシュ、そしてレナード・バーンスタインとヘルベルト・フォン・カラヤン

齋藤からは合理的な指揮法を学び、ミュンシュからはベルリオーズを始めとするフランス音楽を学んでいます。バーンスタインからは師匠というより友人として(小澤征爾には自分のことを、愛称の「レニー」で呼ばせていました)、オーケストラへのコミュニケーションとオーケストラの教育法を学んでいます。そして、カラヤンからは音楽のこと、音楽的コミュニケーションのこと、さらには指揮者は勤勉と相応の知性を持つことなど、多くのことを学んでいます。

しかし、そんな中でも斎藤秀雄は、小澤征爾にとってとても大きな存在でした。斎藤秀雄の没後10年にあたる1984年のことです。小澤征爾と同じく斎藤の弟子である秋山和慶は、一緒になって国内外で活躍する斎藤の教え子たちを集結させます。そして同年9月、東京と大阪で「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」を開催。サイトウ・キネン・オーケストラは、そこで特別編成された『桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ』が母体のオーケストラです

設立当初は、斎藤の門下生100名以上が国内外より集まり演奏会を開催しますが、自主運営によるオーケストラのため、演奏家は無給出演でした。しかし、この演奏会が大成功を収めると、1987年、主にNECがスポンサーとなって、ヨーロッパ演奏ツアーを始めます。

やはり海外でも反応は上々。その状況をみて、小澤征爾マネージャー・ウィルフォードは「日本で音楽祭の開催地を募り、日本で腰を据えてやるべきだ」と小澤征爾に助言します。そして、小澤征爾は開催地を探し始めるのですが、なかなかうまくいきません。そんな折のことでした。オーディオ買取屋のある長野県松本市で、県立文化会館が建設中であるという情報を耳にします。そして、実際に小澤征爾が足を運んでみると、これがとても素晴しい。そこですぐに、吉村午良(ごろう)県知事と松本市の和合正治市長を訪ね、音楽祭の開催を申し入れます。

その申し出は快諾され、さらにセイコーエプソン、キッセイ薬品工業、八十二銀行、アルピコグループ、信濃毎日新聞社など、地元企業の協力も得ます。そして1992年9月5日。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が幕を開けます

初日は武満徹さん作曲の「セレモニアル」の世界初演。翌日はストラヴィンスキーのオペラ「エディプス王」を上演。小澤征爾の盟友でソプラノのジェシー・ノーマンも出演し、プロデューサーはメトロポリタン歌劇場の総裁にもなったピーター・ゲルブという顔ぶれの演奏会でした。

サイトウ・キネン・オーケストラは、世界的に高い評価を受けているオーケストラです。2008年にはグラモフォン誌による"The world’s greatest orchestras"(世界のトップ20オーケストラ)で日本から唯一選出され、19位に選ばれています

 

2.小澤征爾の「指揮」にまつわる秘話

2-1.なぜ指揮者になったのか

小澤征爾は成城学園中学に入学してすぐ、同級生だった松尾勝吾に誘われてラグビーを始めると(松尾勝吾は、新日鉄釜石の松尾雄治の叔父)、たちまち夢中になってしまいます。ポジションはフォワード。小澤征爾は放課後になると毎日、夕方遅くまで運動場を走り回っていました
もちろん、小澤征爾の母親はラグビーを禁止していました。ピアニストにとって指は命です。しかし、そんな母の小言に耳を貸さなかった小澤征爾は、練習後は成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預けたりして、隠れてラグビーに打ち込みます。が、中学3年になる直前のことでした。小澤征爾は、成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ入院します。

小澤征爾の、ピアニストとしての夢が破れた瞬間でした。

退院後、小澤征爾は当時のピアノの先生に言います。「もうピアノは続けられなくなりました」。すると、先生は「音楽をやめるのか」という質問を小澤征爾に投げるのですが、彼が黙っていると、静かに口を開きます。「『指揮者』というのがある」。

そうです。これが、小澤征爾がマエストロの道を歩むことになった始まりです。
小澤征爾が指揮者になったのは、ラグビーで骨折したからでした。もしその事故がなければ、ひょっとすると、指揮者「小澤征爾」は存在せず、あるいはピアニスト「小澤征爾」だったかもしれないのです。

 

2-2.なぜ指揮棒を持たないのか

小澤征爾も、かつては指揮棒にこだわりがありました。
「とても使いやすく見えた」
そんな理由で、フィラデルフィア管弦楽団で活躍したユージン・オーマンディの指揮棒を盗んだこともあるほどです。釣り竿にワインのコルクが刺してある物なのですが、実際、小澤征爾は同様の指揮棒を使っている時もありました。

ところが、とある日のウイーンでの演奏会でのことです。小澤征爾は指揮棒を自宅に忘れてしまいます。気づいた時にはすでに取りに戻る時間もなく、スタッフが別の指揮棒を用意してくれたもののしっくりきません。そこで手だけで指揮することを決意します。

指揮者としては指揮棒を持たないことは苦渋の選択だったのですが、意外にも楽員からは誰の指摘を受けませんでした。良いも悪いもありませんでした。
「ということはみんな見ていないんだな」
それが、小澤征爾が指揮棒を持たなくなった原因です。

とはいえ、指揮棒を持たないことにはメリットもあるようです。小澤征爾が言うには、「何かを手に持つことによって、落としちゃいけないとか、飛んでいったら大変だとか、色々考えなければならなくなる。それから解放されるのだから、むしろ持たない方がいいのでは」ということらしいです

 

3.小澤征爾の秘話

3-1.ブザンソンの秘話

音楽で紐解く小澤征爾(前編)の「2.海を渡った小澤征爾」でお話ししたように、小澤征爾の海外での活躍の始まりは、1959年、第9回「ブザンソン国際指揮者コンクール」優勝です。そのコンクールを勧めたのが、後に妻となる江戸京子だったわけですが、とにかく小澤征爾が「ブザンソン国際指揮者コンクール」の願書を取りに行ったときのことです。まさに締め切りがその日である上に、外国人には大使館の証明が必要だということが判明します。

そこで、小澤征爾は急いで日本大使館へと向かいます。しかし、当時の小澤征爾は非常に貧しく、何度かイギリス館の家賃の支払が遅れていました。さらに、彼はれっきとした留学生ではなかったものですから、大使館にとても怪しまれてしまいます。いえ、怪しまれただけではありませんでした。強制送還。そこまで話は発展し、小澤征爾は「今すぐ飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求する」と言い渡されます

そんなことされたら大変だ。
というわけで、小澤征爾はその場から逃げ出します。

そんな窮状を救ってくれたのが、イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人ピアニストでした。「アメリカ大使館に知り合いがいるから相談してみよう」。そう申し出てくれます。

その言葉を聞いた小澤征爾は、わらにもすがる思いでアメリカ大使館へ向かいます。そして、そこで対応してくれたのがカッサ・ド・フォルテという女性だったのですが、彼女に「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」といきなり質問され、小澤征爾はひるまず大声で断言します。「僕はいい指揮者だ」。すると彼女はその場で大笑いし、すぐにコンクールの事務局に電話で掛け合い、受験を認めさせます。

こうした運命的な巡り合わせを経て、小澤征爾は「ブザンソン国際指揮者コンクール」に出場しているのです。本当に、何とも強運の持ち主です。

 

3-2.カラヤンコンクールの秘話

「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開く」。そんな情報を小澤征爾に与えたのが、ベルリン在住の歌手・田中路子でした。田中は斎藤秀雄と旧知の仲で、色々と小澤征爾の面倒を見ていた女性です。夫は俳優のヴィクター・デ・コーバ。彼がヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、田中夫妻は「ヘルベルト」と、カラヤンをファーストネームで呼んでいたそうです。

カラヤンと言えば、小澤征爾にとっては憧れの人でした。晩年は、小澤征爾もファーストネームの「ヘルベルト」と呼ぶように本人に言われていたそうですが、断固と拒否。頑に、ずっと「カラヤン先生」と呼んだそうです。

そんなカラヤン主催のコンクール前日のことです。小澤征爾は試験会場で課題曲を間違えていることに気付きます。しかし、そこは天才・小澤征爾です。徹夜で猛勉強をして、何と一夜漬けでそのコンクールにパスするのです。

 

3-3.小澤征爾の父の葬儀と三島由紀夫

1970年11月21日。小澤征爾のサンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演の直前、父・開作が急死します。葬儀は1970年11月25日、日本フィルハーモニー交響楽団の曙橋の練習場でした。

しかし、当日は弔問客がまったく到着しませんでした。何があったか。「楯の会事件(たてのかいじけん)」、別名「三島事件」。日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に、割腹自殺をした事件が起きたのです。

三島由紀夫と言えば、小澤征爾がN響にボイコットされた際、朝日新聞に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を寄せ、「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成した中心人物です。

小澤征爾と三島由紀夫には、こんな運命の糸でも繋がっていたのでした。

 

4.まとめ

三回に渡ってお届けした「音楽で紐解く小澤征爾」。小澤征爾は本当に色々な幸運・不運を乗り越え、数えきれない程の様々な出会いを経験し、今こうして活躍されているのです
巡り合わせとは本当に大切です。
ですから、私たちオーディオ買取屋も、せっかく私たちの街・松本でセイジオザワフェスティバルが開催されているのですから、もっと小澤征爾について知り、彼を応援したいと思います。

来年は是非、松本市で開催されるセイジオザワフェスティバルにて、小澤征爾や皆さんとお会いしたいものです。
ではまたお目にかかります。
それまで皆さん、ごきげんよう。

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